同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— キリストの平和 —

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」
(コロサイ3:15)

 今年の教会暦では、4月3日(金)が、
主が十字架に架かられた記念日、4月5日(日)が復活された記念日とされています。例年のことでありますが、主の記念の日に、主のみ業を深く考察し、それに触れさせていただき、その恵みにいよいよ深く与からせていただきたいものです。
 イエスは「世の罪を除く神の子羊」であられました。私たちはイエスの十字架を信じて罪を赦していただきました。
 イエスは「わたしがいのちのパンである。」「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」といわれました。私たちは十字架を信じて、新しく生まれ、永遠のいのちをいただきました。父なる神のみこころのとおりです。
 最後の晩餐の席でイエスは、こう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と。そしていくつかの約束をされました。
まず祈りについてこういわれました。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
 次に聖霊をお与えになることを約束されました。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 その方は、真理の御霊です。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
 次いで、いつまでも私たちと共におられることを述べられました。聖書のほかの箇所とあわせてそう読み取ることができます。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」聖霊の約束に加えて、父とみ子も私たちのうちに住んでくださるのです。
 次に与えられた約束は 、冒頭に掲げた「平安」です。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
 列挙した事柄を考えてみるなら、イエスが「平安」に大きな位置をお与えになっていることがわかることでしょう。「わたしの平安」とされています。

 約束に続いていくつかの命令をされました。
まず「わたし(イエス)にとどまりなさい。」と命じられました。それは、イエスのいのちが私たちに供給され、わたくしたちが真のぶどうの木であるイエスの枝として実を結ぶためです。実を結ばないものは、父がそれを切り捨ててしまわれると付け加えられました。実を結ぶものは、もっとよく実を結べるように父が刈り込みをされます。
 イエスの名によって祈るならなんでもきいてくださると約束を重ねられた上で、イエスの戒めを守りなさいと命じられました。その戒めは「あなたがた(わたくしたち)が互いに愛し合うことです。」その最大のものは「友のためにいのちを捨てる」ことであって、イエスがその模範を示されました。
 そしてイエスの名によって祈るなら、父がそれをかなえてくださると、もういちど重ねて述べられました。それには条件がついていて「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。」ということです。
 そして、真理の御霊についてもういちど説明されました。

 

 私たちは「神を愛し」「隣人を愛して」いこうと思っています。読者の皆さんはみなそうであることでしょう。
それを実行する機会を神がお与えになります。それは、隣人のためにお金を用いることかもしれません。何かの労をすることかも知れません。
神がお与えになった、なすべき機会を逃すと、私たちのうちにある、<キリストの平和>が破れるのです。ですからパウロは冒頭のみことばのように、それを神のみこころの判定者にしなさい、と言っているのです。

 そのような、霊の世界のことがわかってくるとき、キリスト教は皆さんにとって、限りなく興味深いものとなることでしょう。