同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 三男の救いを通して —

森田 初実

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
(I テサロニケ 5:16-18)

 今年与えられた御言葉です。
 三男が去年の10月に救いに導かれました。教会の先生方はじめ、たくさんの方々の祈りがあり、愛がありました。そしてこの救いは神様の大いなる深いあわれみと恵みによるものであります。人が神を信じて救われると、こんなにも変わるものかと思わさせられました。
 私自身も救いを経験して神と共に歩むすばらしさを知っている者であります。しかし私も救われる前は、自分がどれだけ罪深い者であったか、その罪深さも分からないで生きていた者であります。そのような私をも神様のあわれみで贖いだして下さいました。そして神様の愛の中で生かされていることがこんなにもすばらしいのだということを、愛する子供達にも知ってもらいたくて、祈りと戦いがありました。特に三男は私にとって厳しい戦いでした。何度も何度も涙を流し、心がゆすぶられ、試みられ、忍耐しました。
 牧師先生のところへ何度飛び込んでいったことでしょうか。そして先生から「初実さん。あなたは人間であって罪人。穏君も同じ人間であって罪人ですよ。」と言われました。私はハッとしました。自分が罪人であり、そこからあがない救われたのだという経験をしていても、自分と同じように悪さを子がしても自分の事はいいとできても、子供のことは受け入れるのができない者でした。
 牧師先生に言われたことがきっかけで、私自身が変えられる必要を示されました。もっと私が神様に近づき、子供と接するときに知慧と力を与えていただきたいと願い、そして私を変えて下さいと祈るようになりました。
 1日、1日、与えられた日々の中に葛藤もあり、思いわずらうこともしばしばあります。今私の教会で、礼拝のメッセージで語られていることの1つに、「努力して狭い門から入りなさい。」とみ言葉が開かれています。キリストの福音は自分だけの救いでなはく、努力して狭い門から入り神様の示すところで喜んで生き、さいわいと思えるようにと語られます。努力とは「自分の弱いところに手を入れて、自らの救いを全うすることです。」と示されています。
 今年も私の教会では、福音のために多くの伝道集会、コンサートを開いています。三男も7月に行われる予定の伝道集会を担当させていただき、今はその準備なかにあります。多くの兄弟姉妹が彼と共にその集会のためにかかわってくださっています。見えないところでは先生方が動いてくださっています。彼は救われる以前と今とでは大きくちがいます。今は喜んで心から自分の信じている神様をお伝えするために、ひとつひとつ取り組んでいます。去年、私の教会では彼のように、若い方々が多く救いに導かれました。私たちはこの若いたましいのために、彼らが生まれた時から祈り、養い、育ててきました。そしてその救われた彼らはその喜びをもって、教会へきたことのない方々へ自ら伝道しています。教会以外の方々への伝道は、今年の私の教会の祈りでもあります。
 子供達に救いを与えていただきたいと真剣に祈り、向き合う時に、私に欠けているところ、足らなさを多くしめされます。自分の足らなさを受けとめて尚も神様に祈り助けをいただきながら歩ませていただく時、不思議と多くの助けがあることをおぼえます。その助けの中には、私がずっと祈ってきた三男の助けもあります。三男が救いに導かれた去年の私に与えられた年頭のみことばは、詩篇126:5-6「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」でした。
 私は神様の愛にお返ししたくもっと成長をさせていただきたいと願っています。
心から感謝しています。

(盛岡聖泉キリスト教会 会員)