同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— きっかけを見つける新婚生活 —

齋藤 恵一

「その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」」
(列王記Ⅱ 4:30)

 私は今年の3月21日に結婚が与えられ、早くも2ヶ月が経ちました。
結婚して妻ができたということは私にとって何か一線を越えてしまったような緊張感とも達成感とも似ても似つかない不思議な気分です。
 昨年11月末頃に教会の婦人伝道師から結婚への導きを受け、私はそれを承諾し妻も同様に結婚を受け入れました。その後、淡々と速いスピードで結婚のあれこれが決まっていく中で、私は一般的で申し訳ありませんが、「幸せになりたい」ということを思いました。これからはさらに幸せを直接求めていきたいと思いました。
 昔から私は条件を付けたがる者で、幸せがあると必ずその見返りに不幸なことが次に起きるんだと思ってしまったり、何かがうまくいくと、次は失敗するんだ。そうしてバランスは取られるんだと思ってしまう傾向がありました。そのためか、何事にも消極的になってしまうような者でした。そして自分は本当は何をどうしたいのか。という問いに答えられず悶々と日々をすごしてきたように思います。
 話は変わりますが、結婚して妻の昔の話を聞く機会が何度か与えられました。
その中で、印象に残っているのが「豚の丸焼き」でした。
 妻は小学校の時に体育のテストで「逆上がり」があったそうです。運動が苦手なために、逆上がりがなかなかできず、それを教会の先生に話したところ、練習を手伝ってくれることになりました。しかし何度やってもできずに先生に「何だったらできるの?」と言われて、私にできることは・・・何かできることは。と考えに考えて出た答えが「豚の丸焼きだったらできます・・・。」だったそうです。その後の話もありますが、私はその「豚の丸焼きができます」と答えた彼女の必死な姿に胸を打たれました。
 冒頭に記したシュネムの女の言葉にも同様な必死さがあるように思います。
そのシュネムの女には子供がいませんでした。しかし求めてもいない子供がエリシャを通して与えられました。いざ子供が与えられると彼女にとってその子はかけがえの無い存在へと変わっていきました。しかし、その子は早くに死にました。すると彼女は取り乱してエリシャに訴えている姿があります。
 今の自分にこの必死に、懸命に求めていく姿勢があるのか問われました。
今後の結婚生活においては大胆に、「幸せ」を求めていけたらなと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)