同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく (4) —

「私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。
・・・
ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」
(ネヘミヤ記 1:2-11)

 「皆さん、神に近づくことを、まず私たちの願いとしようではありませんか。」とおすすめしています。
 私たちが「願望」を持ったとき、それを実現して頂きたい、と神に祈るでしょう。そのような時に何を祈るべきか、このネヘミヤの祈りから学ばせて戴きましょう。
 ネヘミヤが聞いたのは、城壁のない町に住む同胞の困難でした。それを聞いたとき彼は、「すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神に祈った」のでした。私たちに、何か悲しむべき事がおきたときこのようにする人は滅多にいません。私たちの心は、そのように受け止められないのです。しかし、ネヘミヤの心には、この情報がそのように重く受け止められたのです。
そして、同胞の困難の源・・城壁のない町・・を取り除きたい、城壁を再建したいとの強い願望が生まれました。
 城壁が再建されるためには何が必要か、それを考えたとき、彼自らが立ち上がることを決意したことでしょう。その場合にまず必要なことは、王がそれを許可し、そのために彼を派遣することです。ネヘミヤの祈りは、その点に向かいました。
彼の祈りは、「神よ。同胞の困難を取り除いて下さい。」というところにとどまりませんでした。そして、「神よ。どうぞこの人(王)の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」と進みました。

 私たちが何かの願望を持ったとき、それを実現することを決意します。そしてその実現の道筋を考え、そのために実行すべき方策を考えます。
ネヘミヤの方策が実現するためには王の許可が下りることが不可欠でした。彼はそのために祈りました。

 祈りはひとつひとつついてまわります。願望が神の前に嘉納されるように、その実現の決意を神が嘉納されるように、その実現のために考案した方策を神が嘉納されるように、その実行を神が嘉納されるように、その実現したものをご覧になって神が嘉納されるようにと。

 先頭の<願望だけ祈って後はなにもなし>ということでありませんように。
私たちの教会の礼拝説教に、牧師が何度も、「タナボタ・・を願っていてもダメ」と説教しておりました。それは正に願望だけということでしょう。ネヘミヤが祈ったら、エルサレムの城壁が、ある日人手をかけずに出来上がっていたようなものです。

 この願望、決意、方策、実行、実現という連鎖は、すべてのことに共通です。たとえば、「自分の子供に信仰を持ってもらいたい。自分の信仰を子供に継承したい。」と願います。けれども、願望だけでそのあとに何も続くものがなかったら、期待薄です。

 信仰は、上記の連鎖すべてを含むのです。私の父の世代の人々の信仰に対する感覚とでもいったらいいでしょうか、信仰についての考え方が、往々にして、先頭の願望を神に祈るとそれが与えられるということに集中していたように思います。

 この連鎖全体を信仰と考えて、「信仰生活」をさせていただくとよいと思います。
その中に、「神に近づく」というテーマが入りますように。