同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(5) —

「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。」
(アモス書 3:3)

 聖書には神といっしょに(ともに)歩んだ(歩いた)二人の人物が登場します。
 ひとりはエノク(創世記5:28)で、もうひとりはノア(創世記6:8-10)です。
 エノクについては、D.L.ムーディの「聖書の人々」(伝道出版社1959)を、ノアについては、パジェット・ウィルクスの創世記講演、(日本伝道隊聖書学舎出版部、-1936)
(http://sacellum-chimistae.org/に掲載されています。本誌のホームページ「同労者」の下欄にリンクがあります。)
を読まれると、この二人の人物を通して、神とともに歩むすばらしさを理解できると思います。
 エノクについてヘブル人への手紙にこう記されています。
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:5-6)
エノクは、神に近づいた人、信仰によって神に喜ばれた人の実例として挙げられているのです。
 アモスの指摘は興味深いことです。当たり前のことなのですが、仲がよくないものどうしでは近寄らないというわけです。
 救われる前の人間は、神と敵対関係にありますから、聖書はこう言います。
「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」
(コロサイ1:22)
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
(2コリント5:20)
「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」
(ローマ5:10)

 神に近づく第一歩は、神に「よし、わたしはあなたと仲よくなった。」と認められることです。それは、神が積極的に望んでおられることで、その実現は私たちの態度いかんにかかっています。
 皆さんがエノクの幸いを目指して下さることを期待しています。