同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— あなたが白髪になっても、わたしは背負う —

茶谷 起与志

 「淋しくない大人なんて果たしているのだろうか・・・」、数年前、あるテレビドラマの中で静かに語りかける主人公の言葉がとても心に突き刺さりました。そしてさらにこう語りかけます。「不幸せだから淋しいのではなく、淋しいから不幸せなわけではない。人は一人で生まれてきて、やがて一人で死んでいく。つまり人生ってやつは、もともと淋しいものなのかもしれない。」
決して若くはないし、いい年の大人ではありますが、その的を射たドラマの言葉にはまっていき、連続ドラマを最後までのめり込むように見ていました。
 そして今年になり、私の学生時代からずっと親交があり、私の父方の親戚のクリスチャンである叔母さんも高齢と病気のために会話もできなくなり東京から娘のいる群馬のほうへと行ってしまいました。元気で25年位の年月にわたり、元気に一人で暮らしておりましたが、高齢者の施設へと移っていったのです。たまに会いに行くのですが残念ながら、昔元気だったころのいつも笑っている叔母さんの見る影もありません。それでもクリスチャンである叔母さんの生涯はこれからも主の御手の中にあると信じたいです。
 人間って、みんな明るそうに見た目は振舞っているけれど、本当のところどうなのだろう。何も悩みはないのだろうか。と、ふと思うことがあります。
 クリスチャンはどうなのだろう。クリスチャンになればいつも喜んでばかりいられる。悲しいことなんてない。いつも喜びに満たされているから大丈夫。
 しかしながら人間である以上、いろいろなことが起き、悲しみも、また喜びも、忍耐も、試練も同じように年代に関係なく、信仰生活の長さに関係なくあるのだと思います。やはりわたしも弱く淋しくなんてありません、とは胸を張って言えない者です。
 自分の体を見ましても、十年前と比べると体力も落ち、確かに体のあちこちが悲鳴を上げているではありませんか。また、親戚や仕事の大事なお得意さんが複数同時期に、不幸やまた大手術などが続き、漠然とした将来への不安、仕事や健康への不安など、現実のこととして受け入れるのには重すぎるな、と思える時もありました。そんなある時、このみ言葉が与えられました。
 「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれたものよ。わたしは、そうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」 イザヤ46章3,4節
 私たちの国籍は天にあると信じつつ、元気に希望を失わずこれからも歩んでいきたいと思うこの頃です。

(盛岡聖泉キリスト教会 会員)