同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(3) —

「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」
(ルカ5:1-11)

 神に近づくことへの願望、私は神に近づこうという「決意」、「決心」について考えてみるとき、まず強い「願望」があるなら、「決意」「決心」はたやすくできることに気づきます。決意・決心は自分でできることですが、自分のうちに願望を沸き立たせることは、自分でさっとできることではありません。それは、<何か>をか<誰か>を見て願望を持つ事が出来ることが多いと思います。
 引用した聖書箇所は、イエスが集まってきた人々に話をしようとしたが、人々が押し迫ってくるために、それが妨げられるので、ペテロの船に乗り、岸にいるひとびとに話された後、もう一度深みに漕ぎ出して網をおろしてごらんなさい、言われたところです。イエスのことばに対して、ペテロの口から「何もとれませんでした」ということばがまずでました。でも、ま、先生がそういわれるのなら・・どうせまただめでしょうけど、先生の気が済むように・・網をおろしてみましょう、というペテロの雰囲気でした。
 大漁を見て、ペテロは二つのことに気づきました。ひとつは「私は、罪深い人間である」こと、もうひとつは、このお方は「私のような罪深い人間には近づくことのできない・・罪のない・・お方である」ことです。ペテロはイエスに「私から離れてください」といいましたが、彼のうちにイエスに近づきたい願望が生まれたのです。それで、イエスが、ご自身の直弟子として福音の働きに呼ばれたとき、「何もかも捨てて従った」のでした。そして、ヨハネやヤコブとともに、イエスのみ側近くを歩むことができました。
 「自分を罪深いもの」と「イエスの聖なること」を認識した彼は、後に、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」(Ⅰペテロ1:15-16)と勧める人になりました。
 彼はそれまでにも、イエスの説教を聞き、イエスを知っていました。しかし、この大漁の時まで、そのように自分とイエスを見ることができませんでした。ペテロが与えられたようなチャンスを神は人にお与えになります。しかし今の人間は、イエスに直接会うわけではありません。そこに、イエスに代わる「人」が必要です。
 「人の知慧(ちえ)はその人の面(かお)に光輝(ひかり)あらしむ」(伝道者の書8:1文語訳)
 私たちは、キリスト者が不信者と違う輝いた顔をしていることを知っています。しかしキリスト者と不信者の顔の輝きの差を、不信者は普段は認識できません。神は何かの機会を捉えて、誰かあるキリスト者に接触している不信者に、その輝きをお見せになります。それがその人にとってペテロの場合と同じように、キリストに近づくチャンスなのです。
 不信者と言いましたが、信者であってもその輝きに差があるとき、誰かある方の輝きを見せていただくことがあります。不信者より、他ならぬ、私たちのような信者の方がそのような機会が多いことでしょう。
神が与えて下さるそのようなチャンスを捉えて、私たちは神に近づきたいという願望を燃え上がらせていただきたいものです。