同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(2) —

「ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』・・・」
(ルカ15:25-30)

 「神に近づく」というテーマの取組の最初に、「主よ、君の御座近く我を引き寄せ、隔てなき友のごと あらしめたまえ・・」との讃美が、皆さんの心の歌となるように、繰り返し歌うことをお勧めしました。神に近づきたいという<願望>、神に近づこうという<決心>ほど大切なことはありません。これは、すべての物事の取組に共通のことです。これがないと、取り組むことに関する様々な知識も皆さんの心に届かないし、それを理解してもすぐ忘れ去ってしまいます。そのため学びが益とならないで終わってしまいます。神に近づくというテーマひとつを、畏れおおい表現ではありますが、本当に<ものにする>ことができたら、きっと他のテーマにそのあり方を応用でき、他のテーマにも取組ができることでしょう。
 さて、ここに取り上げている「近い」とはどういうことかを考察しましょう。引用したのは、よく「放蕩息子」と言われているイエス・キリストが話された例話です。放蕩息子は弟息子で、引用している部分は、兄息子のところです。兄息子は父と一緒に住み、父に仕え、父のいいつけを守って、暮らしていながら、父に近いとは言い難いのです。
 弟息子も、もちろん初めはこの兄と同じであったことでしょう。居場所は父の近くでしたが、こころは父から遠く離れていました。そこで、彼はどこか他に行って一旗揚げようと考えたに違いありません。はじめから、遊女におぼれて父の身代を食いつぶそうなどと思って家をでていくはずがないのです。しかし、一人になって、父の規制のたががはずれた途端に、本人の実態が顕れたのです。
 豚飼いをさせられ、空腹に苛(さいな)まれて、はじめて「われに返り」彼は父のもとに戻っていきました。そして、居場所が父の近くになると同時にこころも父に近くなりました。
 父は弟息子の学びのために、財産の半分という高い代価を払いましたが、十分な報いを得ました。