同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(9) —

「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、
 私たちの上に照らしてください。」
(詩篇4:6)
「私は一つのことを主に願った。
 私はそれを求めている。
 私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
 主の麗しさを仰ぎ見、
 その宮で、思いにふける、そのために。
 それは、主が、
 悩みの日に私を隠れ場に隠し、
 その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
 岩の上に私を上げてくださるからだ。」
(詩篇27:4-5)

 神に近づくことを許される素晴らしさを強調してきました。
学校における子どもたちの姿の一例ですが、先生が問題を出して、「答えられる人っ」というと、たくさんの子どもが答えたくて手を上げ、身を乗り出して「はい。はい。はい。はい。・・」とやっているのを見ます。
神に近づくということは、「神に近づきたい人は?」と聞かれたら、おとなであっても「はい。はい。はい。はい。」と手が上がってしかるべきテーマなのですが、これを書きながら、いまひとつ勢いを感じることができないでいます。
「私は天国に行く道を知りたい。」ということは、すべてのキリスト者の願いであって不思議ありません。そのために罪を悔い改め、イエス・キリストとその十字架の贖いを信じたのです。問題は、信じてすぐ天国にいるのならいいのですが、「天路歴程」の「キリスト者(天国への旅をする巡礼者の名前です)」のように、地上の旅をしなければならないので、天国への道が重要になります。その道を切り開いていく鍵は、神に近づき神と共に歩むことです。
 さて、いまひとつ勢いを感じないといった事柄について、私自身の経験をご紹介しましょう。きっと皆さんがそのような停滞を感じておられたら、その打開の道が拓けることと思いますので。
 私の神に近づきたいという願いは、救いをいただくことによって、その第一ステップをかなえられました。教会の集会はもとより、先にお話ししましたような祈りの経験や、聖書と共に多くの信仰書によって、神の世界の知見が与えられました。
 そのような中で、私はひとつの問題に遭遇しました。それは、あの女性と結婚したいという願望に捕らえられたのでした。
「神よ。これは御心のままに。」と何度言ったか、数えきれません。しかしすぐ、元に戻って、その願望を捨てられないのでした。信仰書に祭壇に献げては取り戻すということが書かれていますが、私は正にそのとおりをやっていました。
 時が経ってその女性はいなくなりましたが、私は結婚の問題を握って放しませんでした。他のことはいいのですが、この問題だけは譲れないものでした。そのようにして「御心のままに。」と言ってはすぐ取り戻すことが止まりませんでした。
 そのようになりましたとき、神はそばに近づきたいお方ではなくなりました。自分のこころを神の前に晒すことを恐れました。本当は神の愛顧を失ったのではなかったのですが、神は「御顔を隠された」ようで、恵みがとどめられて、こころが「夏の日照り」のようでした。詩篇のダビデの歌に、その通りだと思わさせられました。
 亡くなった家内との結婚の件を通して、ついにギブアップしました。「神よ。私はこの世のものでなく、あなたの恵みをいただきたいのです。」とこころから叫ぶことができたとき、神が私のこころに触れてくださったように思いました。そして、長く握って放さなかったものを放すことができ、こころから「御心のままに。」と言えるものと変えられ、二度とそれを取り下ろすことはありませんでした。
 神に近づいたとき、二つのものが与えられました。それは「平安」と「自由」です。神の前に恐れを持ったときには、この二つがありませんでした。

 神に近づくことに夢中になれない方は、私のように何か握って放さないものをお持ちではありませんか。何を放さないかは人によって異なることでしょうが、同一の事態を引き起こすことでしょう。積極的に神の前に出、神に近づくとき、神はそれを明らかにし、私たちをいのちの道、天国への道に引き戻してくださいます。