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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—56

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」
(Ⅱテモテ 1:5)

 今回の聖書を学ぶ会は冒頭に士師記5章が取り上げられ学びが進められました。この箇所を通し牧師はこの時代にイスラエルの宗教教育に詩が用いられていたことに触れ、その重要さについて語られました。

 詩は音を共にすることにより歌詞を覚えさせ繰り返し歌うことで身につきます。幼いうちから子どもたちに「神とのかかわり」その「歴史」を教えるために使われていた有効な手段であったそうです。この聖書を学ぶ会も若い人たちへと宗教教育を行う場として、また聖言を捉え実践的な知恵を得る場として用いられています。変わらずにこの集会がもたれるのは生活と聖言を結びつけ、聖書の近くにあることや実際に行動し実る祝福が自分と周りの者にもたらされることを実感し、更なる実践、また神の恵みを証することができることを目指しているからです。
 牧師はこれらを若いうちに身に着けておくことを強調し、それがいかに周りの者への福音宣教になるかを教えました。

 今回も多くの質問がなされましたが、その中から心に留まったものを1つ取り上げたいと思います。
 それは礼拝の内容に関するもので「変わらない愛を持ち続ける」とはどういうことか、という質問への回答でした。牧師は「人は自分の都合で豹変しやすいもので、都合が悪くなるとすぐに手のひらを返してしまうことが多くあります。そのことを捕らえ自分がそのような対応をとってしまう可能性があることを恐れて変わらぬ愛を相手に対して貫くことができるかが大切なのである」といわれました。そして引き続き「信頼と愛」についても語られました。「私達は絶対に失敗が許されないような大切なことを任せるときに誰に任せるのか。それは自分の一番信頼し愛する子どもではないだろうか。大切な戦いを勝ち抜いていくためには愛と信頼が大切なのである」そう牧師が語ったのは、先ほども書いたように大事なことをゆだねる際には(牧師は戦場を題材に話された)その者が「逃げないこと、実力が伴っていること、命をかけて取り組むこと」をその必須の条件としているからです。そしてその愛と信頼を築き上げる場が家庭なのだと語られたのです。一見、愛は優しさであると捉えられがちですが教育の場では時に厳しさであることが多いのです。甘やかすことが愛にはなりません。そう分かっていても人間は「かわいそう」という思いから境界線を曖昧にしてしまい、「このぐらいは」と許してしまうことがあるのです。だからこそ牧師はここにポイントを置き、「むしろ本当に子どもの事を考えるならば、その魂の救いと信仰の継承を第一と考えなければならない。」と語りました。その時を見逃さないような厳しい目で子どもを観察しその子の実体に対峙していくことが必要になるのだというのです。

 私自身、子ども時代は厳しい注意の目の中、育ったものです。決して息苦しさや雁字搦めで自由のない環境を疎ましく思ったことがないとは言いません。しかし私はその中で育ったからこそ、家庭や教会にいることが外の環境にいるよりもずっと心地良いということや私が危ないことや悪いことに手を出す前に注意してくれる人がいることに安心を覚え日々過ごすことができています。自分で決定することがいかに身勝手な選択に偏ってしまうのか、本当に大切なことを示してくれる人がいないという状況がどれだけ怖いことであるのかを日々実感させました。加えて両親の真実な歩みは、私の心を捕らえて放しませんでした。それこそが私の両親への大きな信頼に繋がりました。これまでの生活の中で両親からの教えに従い歩んでいたことは私にとってなんと最良であったのかを思い出すたびにそれが証となっているのです。
 両親が私にどんな大切なことを任せるか、今はわかりませんが、どんなことを言われようと信頼しそれを私の全てを尽くし取り組んで行きたいと思っています。そして同時に私が自分の子どもに対峙していく際には十分な注意を払い、神の教えを豊かに示したいと思います。両親のように子どもに信頼され、神の道へと導いていける者とならせていただきたいと願っています。これが、牧師が示したいと願っている真の信仰の継承であると気づかされました。
愛する大切な者をこの手から取りこぼすことが無いよう、信仰者として若いうちからこのような学びをこれからも続け、なお一層良いものとしていけるように取り組み続けていきたいと思いました。

(執筆担当:山本 咲 仙台聖泉キリスト教会会員)