同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 祈りの家と強盗の巣 —

・・・それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」・・・・
(マタイ21:12-13)

 神殿で礼拝しようとする時、遠方に住んでいるユダヤ人にとっては、ここで犠牲の獣を買うことが必要であった。殊に外国に住んでいる人々には、神殿にはユダヤのお金で献金しなければならなかったので両替が必要であった。それでこの礼拝に来る人々、巡礼にくる人々に便宜を図ることが商売の種になった。やがてそれは、便宜を図ることよりも商売の方がこれに関わる人々の中心的なこととなったであろうことは容易に想像がつく。

 今多くのキリスト者たちが、イスラエルを見てこようと、出かける。そのコースは、エジプトからシナイ、アカバ湾、死海とソドム、ヨルダン、エルサレム、ガリラヤ、カナやカペナウムといった町々、時にはエスドラエロンの野、カルメル山やゲリジム山などもあると聞く。
 以前、本誌にもイスラエルの旅行記が掲載されたが、ガリラヤ湖畔の宿泊で、ガリラヤ湖で獲れた魚の口にコインが入れてあった。それは、イエスが神殿の献金を納めないのか・・と迫られたとき、イエスはペテロに本当は納めなくてよいのだが、彼らをつまずかせないために、魚を釣りなさい。そうすればその口にコインがあるから、それで私の分とあなたの分の神殿の献金を納めなさい、といわれ、ペテロがそれを実行した記事を余興に使ったのである。
そのくだりを読んで、私はいっぺんにイスラエルツアーには行きたくなくなった。聖書を余興に使うとは、<強盗の巣体質は昔も今も変わらんわい>。

 近くでは、商売としてのキリスト教式の結婚式場がある。建物は教会風であるが、教会ではなく、商売そのものである。
そのような建物のそばを通るたびに、宮潔めを思い出す。それは神の宮ではないのだが、それをだしに使っている。
司式者にこう願う。
せめて「父と子と聖霊の名」は使ってくれるな。「司式者何のたれべえの名によって、○○と××を夫婦と宣言する」、といってもらいたい。