同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステの意義 —

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、 またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
(エペソ4:22-24)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
(ガラテヤ2:20)

 今年の教会暦では5月15日(日)がペンテコステに当たっています。4月号の論説で、イエスの十字架と復活に触れました。イエスの誕生から十字架の死と復活、それに続いた聖霊の降臨は、世界の歴史で考えるならほんの一時点の出来事です。
 このことは、逆にイエスの十字架と聖霊が降ったということが、神が人間に与えられた<切り離すことのできないひとつの救い>であることを示しています。バプテスマのヨハネは、イエスを「聖霊と火によるバプテスマを授ける方」であると紹介しました。 
 使徒の働きを読めば、伝道をはじめた使徒たちは、イエスを信じることと聖霊を受けることを切り離して考えなかったことがわかります。サマリヤ人たちがイエスを信じたと聞くと彼らはすぐ使徒たちを派遣して、信じたサマリヤ人たちが聖霊を受けるようにしました。パウロはアポロの働きで入信したエペソの人々に会うとすぐさま「信じたとき聖霊を受けましたか?」と尋ねています。そしてすぐに彼らのために聖霊を求めて祈りました。キリスト教が伝えられた先々では漏れなく、信じた人々が聖霊と喜びに満たされていたことが記されています。
 私たちも、もしその意味で聖霊を受けることなく信仰生活を送っているとしたら、悲しむべきことです。
 ペンテコステのできごとは、「聖霊に満たされる」という印象が強く、弟子たちが何をいただいたのか、一般の信徒の皆さんには理解されていないことが多々あると感じます。
 新約聖書を調べてみるならば、弟子たちがいただいたものは、冒頭の聖句の内容そのものであることが分かります。「古い人を脱ぎ捨てること」=「キリストとともに十字架につけられること」、「新しい人を身に着ること」=「キリストが私のうちに生きておられること」を受けた経験は、使徒の働きをはじめ新約聖書の隅々までしらべても、ペンテコステの時と、そのあと「聖霊に満たされた」、「聖霊が降った」と表現されていること以外にはありません。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」といいうことには誰も反対しないでしょう。
 キリスト者の完全、聖化、聖潔、きよめ、全き愛、第二の転機、・・などの表現が論争の原因となったものと思われます。これらはその強調点から表現を変えているのであって、「キリストともに十字架につけられ」「キリストが私のうちに生きる」以外のなにものでもありません。
 この経験は、キリストとともに十字架につけられるつまり「死ぬ」ということと、キリストが私のうちに「生きる」ということから成り立っています。
 まず「死ぬ」ということですが、何が死ぬのでしょうか。
「十字架と復活の救い」と題した3月号の論説に、人は「アダムのかたち」に生まれついており、神の国については死んだものであったこと、そして救いの恵みにあずかり「神のかたちの新しいいのち」をいただいて生きたものとなったことを記しました。
この「かたち」ということばが何を意味しているかここでは解説を省略しますが、パウロの手紙を研究すると分かります。
 救いの恵みに与っても、アダムのかたちの古い人はまだ生きているのです。
イエス・キリストはそれを聖霊と火とのバプテスマによって「聖絶」し、古い人を死に渡し、新しい人が私たちのすべてにならせてくださるのです。キリストが私のうちに生きるとは「聖霊が私のうちに生きる」ことと同一です。新約の時代においては、聖霊は「キリストの霊」であって、イエスがご自分を父なる神と同一とみなされたと同じように、聖霊はキリストと同一なのです。

 古い人が聖絶されると、神のみこころに従って生きることを喜ぶことができるようになります。本当は自分の思い通りに生きたいが、神がこうせよと自分の思いとは違うことをお命じになるので「仕方がないから従って生きる」のは律法の世界です。そういう信仰では、まことに不自由で「喜び」「平安」に満たされていることは困難です。神のみこころに従って生きることができるとき、人は自由で平安と喜びに満たされていることができます。
ハンナ・スミスという人の「幸福の秘訣」という著書があります。義も愛も、しかたなしに行うのでは、パウロが、「愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(コリントⅠ 13:1)といったことそのものです。幸福の秘訣は、それらを神のみこころを喜ぶことのできるこころによって行うことができるところにあることが示されています。

 今年のペンテコステに、それをまだ得ていない皆さんには、その幸福の秘訣を獲得していただきたいと願っています。
 いつまでも古い人と一緒に歩んでいませんように。古い人は「聖」でありません。
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(ペテロⅠ 1:16)