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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—62

 4月19日(火)の夜、恒例の聖書を学ぶ会が仙台聖泉キリスト教会でもたれました。今回の聖書を学ぶ会も、山本嘉納先生を通して聖書の内容の本質的なところを捉えて、とても充実した学びの時が持てましたことをまず感謝いたします。この学びを、読者の皆様にも共感していただきたいと存じますので一連の内容を記させていただきます。

 今回の学びでは、まず士師記の11章を全員で輪読した後、山本先生より、
「人間は誰しも嫌悪感というものをいつの間にか持ってしまっていて、自分の好み、嗜好というものを優先的に生きている現状がある。救いを受けた私たちでさえも、きちんと意識しなければ、知らず知らずのうちに人間的な好みや感覚を行動の基準にしてしまっている。真理を示していくにはやはりそういう部分もきちんと意識し、成長が与えられていかなければならない。」
ということが語られました。

 その後いつものようにお茶とお菓子が出され様々な質問がなされましたが、その中で、山本咲姉から
「士師記11章30節以後のところで、エフタが神に誓願を立てたところからの一連の流れはどのようにとらえればよいか。」という質問がありました。
 そのことに山本先生は、
「この箇所からは大きな決断と意向というものがあったととらえられる。そして人生の中で数々ある困難にどう信仰的に立ち向かわなければならないかということを問われることである。世間から信仰者に後悔は無いかのように思われる中で、いかに後悔してもいいという意思を持つことができるか。エフタはそのことにとってとてつもなく大きな出来事の中を通ったことである。私たちも物事を賢く考えるならば、この行いをするとこのような結果になる。ということを把握していかなければならない。しかし神の召しの下においては何が起ころうと受け入れていかなければならない。その犠牲は後々神が保証して下さるということを信じなければならない。このことの示唆は様々なところで現れるが、早い段階でそれをとらえ、その中に生きていかなければならない。」
と語られました。
 次に山田汀姉が、先日の礼拝のメッセージについて
「マタイ5章48節が取り上げられたところから、神が私たちに完全であることを望んでおられる関係とはどういうものでしょうか。」
という質問をしました。
 この質問に山本先生は、
「神が完全に愛してくださったように愛することであり、このことは日々考えていかなければならないことである。私たちは神の前に完全であるかを問うていかなければならない。もし足らないと感じたならば、『主よ、あなたが愛するように愛せますように。』と願うことで完全に近づいていくことができる。他の誰かの評価ではなく、自分が神に愛し仕えていく姿勢をとっていくことができるか、そして心満たされ、涙が溢れてくるような感覚があれば真実に生きていけるのである。ただ単に神が悲しみを取り除いて喜びに変えて下さるというような感覚はご利益宗教に近い。そうではなく神が傍にいて下さり、信仰を力に変えて下さることで自分自身の力で悲しみを乗り越えていく術を身につけること、そして世の人々に福音を宣べ伝えていくことができる、それが完全に愛する力である。」
と仰っていました。
 
 この学びを通して、神から愛されることとは何かということを考えさせられました。人生の歩みの中で、神を信じる信仰者でいることは大きな希望が与えられていて、どんな苦難や問題があっても神に帰依することで最善の乗り越え方ができると私は思いました。エフタは性急に神に誓ったあまりにひとり子である娘を全焼のいけにえとしてささげなければならなかったと解説する書物もありますが、私はそれは愚かなことではなく、神の召しの中にエフタは完全に歩んだのだと感じました。そしてエフタのように私も神の召しを受け入れ、生涯福音に仕えていくものとして歩んでいこうと思いました。

(執筆担当:山田 保 仙台聖泉キリスト教会会員)