同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(13)—

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイ18:20)

 この論説の最初に述べたことですが、私は「あなた方は、神に近づく道か、遠ざかる道かどちらかを歩んでいる。中間はない。」という礼拝説教をきいて、「私は神に近づく道を行きたい。」と願いました。そして神に近づく道は集会に出席することだと思いました。それが、私が救われる原因となりました。
 神はどこにでもおられる、ということは本当でしょう。しかし、特別な場所に、神がおられる、あるいはそこにおいでになるということがあります。聖書を開くとそのような記事がたくさんでてきます。たとえば、モーセはホレブ山で神にお会いしました。そして「イスラエルの人々をエジプトから連れ出しなさい。」という命令を神から受けました。そこには神がおられました。むしろ、モーセに会うために神がそこに来られたと言った方がよいかもしれません。
 それと同様に、神がキリスト教の集会においでになる、それをお約束になっているということを冒頭のみことばは示しています。私が救いの恵みに与る直前に、神に近づくために集会に行こうと思ったことは、正しい選択でありました。
 やがて結婚し子どもができ、先生(牧師)とご家族をお迎えして家庭で集会を開くことも時々ありました。そのときいつも、「神と先生が私の家庭においでくださった」と思っていました。家庭での集会も、キリストの名によって集まった集会ですから。
「・・・こうして、主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。」(サムエル記第二 6:11)
これはダビデの時の記事で、当時は神殿を建設する前であって、神の幕屋と契約の箱(主の箱)が神のおられるところを示していました。ウザの事件があったためこのオベデ・エドムという人が、主の箱を自分の家に迎え入れることになったのでした。
 神が自分の家にいつもおられるとはなんと素晴らしいことでしょう。今、私たちには、この世の何か・・富といったもの・・のためではなく、神がともにおられること自体が幸いなのです。
 仙台聖泉キリスト教会の隣に住まいのある石井兄が、自宅の1Fを教会の用に提供され、そこで、教会学校、ミニコンサート、三浦綾子読書会、子ども向けの集会など、教会の集会が頻繁に行われるようになりました。それで私はいつもこう思うのです。兄弟は、神に自分の家に来て頂くことに成功した。なんと素晴らしい選択をしたことだろうと。