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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—63

「すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主の御告げ──」」
(エレミヤ記 1:7-8)

 今月のも変わらずに聖書学ぶ会をもてることを感謝いたします。今回の聖書学ぶ会は冒頭に士師記12章が取り上げられました。この箇所にはエフタとエフライム人との戦いが書かれています。エフライム人は最初エフタからの呼びかけに応じなかったにもかかわらず、エフタが戦いに勝利し戻ってくると文句を言ってその報酬を要求しました。それに対してエフタは、ギデオンのように受け流すのではなく武力を用いエフライム人に対抗していきました。そのことにより、エフライム人は大きな被害をこうむることになりました。この時代のエフライム人たちは自分たちが昔からの選びの民だとのぼせあがっていました。このようなおごり高ぶりや傲慢な態度というのは宗教性というもので抑制されていくものです。しかし、エフライム人たちの宗教性の不十分さゆえに報いを受けなければいけませんでした。このところから、牧師は私たちの社会での生活のなかにも宗教性を持ちつつ生きていかなければならないと語られました。
 今回も様々な質問がなされました。その中から二つの質問を取り上げたいと思います。
一つ目の質問は日曜日の礼拝で語られたヤロブアム二世についてでした。ヤロブアムの問題が大きく取り上げられているのにもかかわらず、なぜヤロブアム二世というようにもう一度同じ名が使われたのかということでした。名前くらいなら大丈夫だろうという甘い考えがあったからです。ここで牧師はダムのたとえを用いて話されました。ダムを壊すためには壁全体を壊すために多くの爆薬を使う必要はなく、ひびを入れるだけでよい。そこから水があふれ出し壁は水の勢いに負けてダムは壊れていくということでした。このように、小さなことであればいいだろうというところから信仰に亀裂が入り、たやすく崩れ去っていってしまうということでした。私自身も社会での生活にあって周りに合わせるためと言ってふとしたときに罪を見て見ぬふりしそうになることがあります。けれど私たちの罪は、そのような中にあって大切だと言われている宗教性を危うくするものであると思います。
 二つ目の質問は民数記20章のモーセについてでした。この箇所でのモーセの行いは、彼の人生にとって汚点ではなく神が終わりの時のために備えていて下さったことであると牧師は語っていました。それは、神の教えをする者は死ぬまでその道に生き続けなければならないからです。私も祖父母を見ているとそのことを強く思います。年を取っていても若い人のためにと祈っている姿を見る時にその深い愛を感じます。私はその祈りによって救われまた守られ続けています。
 牧師は最後に愛についても語っていました。「罪のない状態(真実)であることが私たちに近いものに対しての本当の愛である。」そのためにも神につき従っていかなければならない。そうすることで神はその愛を豊かに担保して下さいます。
 私はこの聖書学ぶ会のまとめを書くにあたって示されたことがあります。それは過去にもまとめをお願いできますかと問われた時、私はまだ高校生でその力はありませんとお断りしました。しかし文頭に挙げた御言葉のとおり神は「まだ若い、と言うな。」と言って私に機会と力を与えてくださいました。神の力が働いてこのまとめの仕事と聖書学ぶ会が守られ豊かな学びの時になったことを感謝いたします。

(執筆担当:山本 更 仙台聖泉キリスト教会会員)