同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(14)—

「 あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
(詩篇 16:11)

 前回、集会に神がおられることを取り上げました。祈祷会で祈るときは、礼拝とはまた違った神に近づく機会です。日本の教会では、祈祷会に出席する人が少ないと嘆かれていることは周知の事実です。
 神に近づくことは信仰生活にとって重大なことです。恵みをいただくことも、あるいは使命を与えていただいて、神のために働くことも、神に近づいてはじめて得られます。テマイの子バルテマイは、自分のいる道を通られたイエスに叫んで、イエスに近づかなかったなら、一生盲目であったことでしょう。ザーカイがイエスに近づかなかったなら、彼の家に救いは来なかったでしょう。
 集会に行けばそこに神がおられるのに、そして神が招いておられるのにそこに行かないのは、イエスの以下の例話どおりのことをしているのです。
「 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。』また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』・・・言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」(ルカ14:16-24)
 神の恵みを投げ捨てるとは、「あー。もったいない。」に尽きます。

 個人の祈りにも神は近づいて下さるのです。
 神が私のつぶやきをお咎めになったことをお話しましたが、そのとき述べましたように、それを思い出したのはずっと後になってからのことで、子どもを育てている間は、皆さんと同じように取り組んだのです。
 子どもが信仰に立っていかない時、なにもせずにいるはずがありません。機会をつかんでは説得し、時には叱り、懇願し、それでも子どもの心を動かすことができない・・苦闘しました。家内は手紙なら冷静に判断するかもしれないと、しばしば、手紙を書いて子どもたちを説得しようとしました。ついには、娘を家から追い出さなければなりませんでした。
 そんな中、繰り返し語られていたことに、山本岩次郎牧師が、神に子どもを捧げますと約束したけれども、子どもである長男(光明牧師)がどうしても献身すると言わないので、毎夜、真夜中に起きては会堂にいって祈った。その結果その祈りはきかれ、ご本人がしたアブラハムがモリヤの山でイサクを捧げた説教を聞いて、長男が献身の招きに応えて進み出た、ということがありました。
 山本岩次郎牧師に応えられた神は、同じように祈るなら、私にも応えて下さるであろうと期待しました。そして私も夜中に起き出して、寝室の隣の部屋に行き祈りました。夜床につくととたん朝がくるような感じで寝込む私でありましたが、不思議に夜中の3時頃に目が覚めました。それで毎夜30分から1時間くらい子どもたちの救いのために祈りました。
 子どもたちの上に結果を見ませんでしたから、1年であったか2年であったか、もう確かではありませんが、それは非常に長く続きました。子どもたちの上に恵みをみるのは、ずっと後のことになりました。さらに下の娘はまだ救われておりませんが、きっと御国では神の前に一緒に立つことを許されることでしょう。
 その祈りを続けているうちに、ある夜、聖霊が私のうちに満ちて下さったことを感じました。よく感じなくても信仰によって・・と言われますが、それは感覚に感じるものでした。潔めの恵みに与ったときすでに聖霊の満たしをいただいていましたが、それを遙かに上回るものでした。
 聖霊の満たしの感覚とともに、それはそれは心地よい感じが心に満ちました。さきに歩んだ信仰者たちのなかにも、似たような経験をした人々がいて、「天国の前味だ!」と表現しています。
 その心地よい感じは、4~5年続きました。世の中の生活では、企業戦士をつとめているときでした。

 家内にそのことを話そうとしましたら、家内は子どものことで心を押しつぶされているような状態でしたから、それを聞くことを嫌がりました。そのため誰にもそのことを、話し、証することをしませんでした。

 ここにお話するのは、私が山本岩次郎牧師のいただいた恵みを私もいただこうと思ったように、皆さんにも・・・どのような形によってでも・・・祈りを実行して欲しいからです。そうするなら、神の世界を知り、キリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ことができ、

 「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

と、自分の経験として神と語ることができるでしょう。