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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—65

「「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していたからである。」
(士師記14:4)

 今月も変わらずに聖書を学ぶ会が開かれたことを感謝致します。特に今回印象的だったのは多くの兄姉が聖書のみことばからの質問だけでなく礼拝のメッセージや日々の営みの中での思いなど赤裸々な質問と言いますか、熱心に神に求めている信仰者としての姿が印象的であり、私もこのような姿であり続けたいと思わされ感謝を覚えました。

 特に印象に残った質問を紹介させていただきます。

 まずは、伝道者の書5:2「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。」から日々の神様の前に祈る時の祈り方(ある時は会話のような祈り方になることや自己中心的祈りなど)を通して質問がありました。
 山本嘉納先生は、「みことばの促しをどうとらえるか。促しをないがしろにすると変化がなくずぼらな状態であること。自分に対する促しをどのようにたてあげるか、どう取り組むか。全て自分で処理するのではなく、促しに対する対処をその道のプロ(例えば教会の先生方)、周りにいる経験者に聞いてみる。促されたことを侮ると取り残されてしまいます。」
という回答をされました。
 私もこの質問と回答を聞いたときに、私自身まず、みことばによって私は促されているのか考えさせられました。そして、この質問をしていた姉妹のように、みことばを豊かにとらえ、自分に対する促しというのを深く考えていかなくてはいけないともう一度教えられ感謝致しました。

 もう1つ印象に残った質問は「礼拝の中で自分自身をゆずるということを語られ、私も日常生活の中や様々な営みの中にゆずらなくてはいけないと頭ではわかっていて全てをゆずるということを願っているのですが、あけわたせないことを思ってします。どのようにしたらよいのでしょうか。」という、求めの質問がなされました。
 先生のお勧めは、「相手に成果をもとめてあえてゆずってみることや、自分の中で何を欲しているのかを考えてみる。また、自分をゆずることができない人は、取り組みの中で成果が出ない中悩んでしまう。成果を出すために相手や何かに犠牲を払いながら自分をゆずり、周りにいるその道のプロといわれている専門家や経験者にアドバイスを伺い、成果や結果を報告し、自分を見せ続ける。自分を厳しくする財は生きて潤滑に用いられますが、甘やかす財は自分を苦しめることになります。」ということでした。
 この所は例え話が用いられました。それは高いお金を払ってパーソナルトレーナーをつけて食事管理や運動メニューをきびしくしてダイエットをしている人の話がなされていました。
 この質問と答えを伺ったときに、まず私自身そのような思いや考えに気付かされたことがなく、私自身も教会や職場、家族との営みの中などで悩みがなく生活しているわけではありませんが、目の前に与えられ用意された生活の中に生きていて、この質問をされた姉妹を通して改めて礼拝で語られたことをとらえきれていない自分に気付かされました。

 それから、きちんと自分自身をゆずり歩んでいることが出来ているかと自分自身に問い続けることまた新たな信仰の糧として歩んで行きたく思います。

 今月も実りある聖書を学ぶ会が開かれたことに神に感謝いたします。

(執筆担当:齊藤 遥 仙台聖泉キリスト教会会員)