同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 未信者?不信者? —

 昔の伝道者たちは、意気軒昂であって自分の周囲の神を信じていない人々を、全部信者にしてしまうつもりであった。かれらは、これから信者になる人々であるから「未信者」だと言った。それでキリスト者の周りには未信者ばかりになって「不信者」がひとりもいなくなった。
本当か?
ひょっとして皆さんも「未信者」と言われるのではあるまいか。
 この未信者ということばは、いつの間にか「罪」を「過ち」ということばに置き換えてしまって、その悪さが際立たなくなる例に似てきた。
このたぐいはたくさんある。
盗みを万引きといい、姦通を不倫という。日本語を英語に置き換えてソフトに聞こえる表現にする例も多数ある。そのようにして悪さを覆い、それを行ってもたいしたことがないもののように考えさせるのである。
 文章の中で「男」、「女」と表現するときつく聞こえ、「男性」、「女性」と表現するとソフトに聞こえる。
「めくら」と表現していたものを「盲人」と表現する。そのように身体の障害などをソフトに表現するのは、よい配慮かもしれないが、「自殺」を「自死」とおきかえてその「悪さ」を覆うのはいただけない。自殺を助長するようなものだ。
 さてもとに戻って、この不信者について聖書はなんというか、聖書を開いてみよう。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1-3)
「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」(エペソ4:18-19)
「愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。 彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:1-2)
 枚挙にいとまがない。不信者は神に敵対する人々である。不信者を未信者と呼んで油断するなかれ!