同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(15)—

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ 11:28-30)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。」(コロサイ3:15)

 前回は、神に近づく人に神があたえてくださる喜びについて述べました。福音書を読むとイエス・キリストが「私は喜ぶ」と言われていることが数多くあることがわかります。パウロの手紙にも彼が「喜ぶ」と言っていることが多数あります。
この喜びを皆さんのものとされることを期待します。
 さて今回は、神に近づく人に神が与えてくださる「平安」について考えたいと思います。
 冒頭のみことばにあるように、イエス・キリストは私のところに来なさい・・・私に近づきなさい。そうすれば休ませて(平安にして)あげます。と言われています。最後の晩餐の説教では直接、「あなたがたに平安を与えます。」と言われています。そしてその「平安=キリストの平和」は「世が与えるものとは違います。」と断言しておられます。
イエス・キリストの救いを知らない世のひとびとの味わうことのできない、素晴らしい「平安」です。
パウロはそのキリストの平和が、私たちの「心を支配する」ものとしなさい、と命令しています。そしてそのために、私たちが「召され」た、すなわち「救いに与った」のだと言います。

 「キリストの平和」を持っている人は誰でしょうか?そういう人は存在するのでしょうか?キリスト教は「証人」を必要とする宗教です。素晴らしい理念を語っても、それを経験し、それに生きている人物がいなければ、世に言う「絵空事」に過ぎません。
 証人の効果は、使徒の働きにある生まれつきの足のなえた人の癒やしの記事が印象的です。
「そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」(使徒の働き4:14)
 この論説でも、主張する事と同時に「証人」の存在をのべておこうとしています。多くは私自身のことです。
証人には大切な要件があります。それは証言する事柄に関しての、経験や見たこと聞いたことあるいは感じたことの内容が、真実であること、虚偽つまりうそ、誇張、隠蔽つまり証明しようとする事柄に影響する内容を隠すことがあってはならないことです。
 神は私に「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)と言われましたし、証人の要件に沿わないことを私が始めますと、神からのチェックがはいります。
神の救いの証人になるこれは、もちろん私に限ったことでなく、救いに与ったすべてのキリスト者が命令されていることです。
いずれにしましても、上のような証人の要件をこころに留めながら皆さんの前に「こういうことがありました。」と証言しています。

 私の経験は以下のようでした。
救いの恵みに与って1年ほど経ったとき、ふと集会が毎回同じようで、空虚なものと感じられるようになりました。礼拝のたびに「潔め、潔め」と言われますが、その当時「私は潔められました。その内容はこうでした。」と証言してくださる方もいませんでした。最近「安保反対」で行われた「東京大学安田講堂の攻防」がテレビで放映されていましたが、私が大学にいたのはちょうどその頃であって、私がいた学内もデモの嵐が吹き荒れていました。そういう運動の先頭に立っている人々の「アジ演説」を聞かされましたが、戦わなければならない、戦わなければならない、と繰り返すのみで、なんと中身がないことをいっていることか!!と思わされたものでした。
 しかし、教会で聞く説教も毎回同じようなことばかりで、やっぱり中身がない、と感じました。
 前にも述べましたが、私には「これだけはお献げすることはできません」といって、握って話さないものがありました。結婚についてです。
神に近づくと、いつもそれが指摘されるので、神が恐ろしかったのでした。
そのことについて、15年11月号のこのコラムで触れていますので、くりかえしになりますが、その握って放さなかったものを、放すことができたとき、逆に自由になり、平安が与えられました。
 イエスが言われたとおり、その平安は世のものとは異なって、世の中では多くの困難を通りましたが、平安はもう50年間も失せたことがありません。
 私の経験は私ひとりのものでなく、きっと他の方々も、教会は「空虚だ」と感じるところを通ることでしょう。皆さんその時間違えませんように。神に近づくなら、「キリストの平和」があり、「キリストの喜び」があって、皆さんの人生を満ち足らせるものとなるのです。