同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— クリスチャンとキリスト者 —

 またしても確たる証拠に基づく議論でなく、・・恐らくそうであろう・・位の話なので割引しながら受け取っていただきたい。
 「クリスチャン」と「キリスト者」、いずれもキリスト教の信者をさしていることはご存じの通りである。どうして二つのことばができたのか?考えてみた。
 文語聖書では「キリステアン」となっている。
 私の父親は、明治生まれ、母親は大正生まれであるが、二人とも会話では、「クリスチャン」と言った。それは救われた当初からのことのようであった。
察するに、世の中、明治維新となり、ここぞとばかり宣教師たちが日本にやってきた。イギリス人、アメリカ人が多かったこともまたご存じの通りであろう。彼らは、キリスト教の信者を「クリスチャン」と呼んだであろうことは疑いの余地がない。
 それで、キリスト教の信者を指すことばとして「クリスチャン」が日本語・・外来語・・として定着した。日本語の辞書にでていることばも「クリスチャン」である。

 それでは「キリスト者」はどこから来たのか、太平洋戦争敗戦後、文語に不慣れな世代が増えて、口語の聖書が欲しいという動きが始まった。それで、1955年に日本聖書協会(文語聖書を刊行したのもこの協会である)から、口語訳の聖書が刊行された。
 その翻訳時に「キリスト者」という語を採用したようである。
 やがて新日本聖書刊行会ができ、1970年に新改訳聖書を刊行したが、聖書協会訳に倣って「キリスト者」を採用した。
 その後、日本聖書協会は、訳語を改めて「クリスチャン」とした。
1978年に日本聖書協会から、カトリックとの共同訳なるものが刊行されたが、それにも「クリスチャン」が採用された。
新聖書刊行会訳ではまだそのまま「キリスト者」である。
 改訳の準備をしているそうだが、次の版はどうするのか興味深い。
 世の中の趨勢からいえば、「クリスチャン」が「口語」、「キリスト者」は「文語」といったところであって、「キリスト者」は文章の中でしかほとんど使われない。
 ことばの世界は、多く使われる方が採用される。それでは圧倒的に「クリスチャン」である。エンジンを「発動機」と言い直してももう無理。ライオンは「獅子」よりも行き渡っている。

 「クリスチャン」が多勢の支持を得ていることは上述のとおりであるが、「クリスチャン」も「キリスト者」も気にせず、口に上ることばを使えばよいと思っている。