同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 研究ということ —

 常日頃、学校で教えなければならないものは、<研究する>ことだと思っていたが、最近になってそれを実際にやっている高校があることを知った。もう世間では知れ渡っていたらしく、「堀川の奇跡」と呼ばれているとか。
 京都市立堀川高校は、国公立大学に現役入学する生徒は6人くらいであったが、1999年に研究科を設けて、1年生から研究をカリキュラムとしたとのこと、するとその生徒たちが卒業した年には、国公立大学への入学者が106人になり、以来ずっとそれ以上のレベルを維持しているという。
 校長がインタビューに答えていることが興味深い。よそから優秀な先生を集めてきたのではなく、そこにいた先生がそれを担当した。よそから優秀な生徒を集めたのではなく普通に応募してきた生徒たちがそうなった。大学からその道の専門家である研究者を呼んで講演して貰ったとき、失敗したと思った。その理由は、一時、みな喜んでその講義を聴いたが、それは非日常のことであって、その後、またいつもと変わらない日常に戻る。それがかえって問題であるから。
 研究するというのは、「知られていないこと」に自分で答えを出すことである。つまり答えまで全部学習するのではなく、答えを出す筋道考え、それに従って研究して答えを出すのである。
 しかし、課題研究を実行するにはあらかじめ関連する事柄についての知識が必要である。助走として小学校、中学校で、必要な情報・知識を自分で集めてくることを学んでおくとよいように感じられる。

 なにが言いたいのか。
 手法として、これは信仰の世界にも当てはまると思うのである。
著名な説教者を呼んで、集会を開くのは、この学校で大学の先生を呼んで講演して貰ったのと同じことである。
普通の先生と普通の信徒が、信仰の道を研究すればよい。
研究の結果はそっと誰にもいわずにしまっておくのではなく、それをお互いに明らかにし、批判をしあい、内容を突き詰めて、より高いものにし続けるとよいのである。

 これぞ「同労者」発行の目的である。