同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 主の真実に生きる ~

石井 和幸

「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」(箴言16:1)
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)   

 7月、山本嘉納牧師、盡子婦人伝道師をお迎えして我が家で家庭集会が持たれた際、集会が終わろうとしていたときに、私はこのまま終わってしまってはいま一つ煮え切らない・・・という思いを持ちました。私は山本先生に、「もう一つ自分自身が前進していくために、何が必要ですか?」といった内容の質問をしました。すると先生は、「あなたは愛が薄い。いまからでも遅くない。まわりの人を愛していくことに意識をおくように」と答えられました。

 それから、8月、9月と過ごしていくうちに、一生懸命やっているつもりでも、自分の行動や気持ちに、何とも空回りをしているような様子・状態があらわになりました。もっとも、「愛が薄い」という先生からのことばを、自分でああでもない・・・こうでもないと分析して自己流に対策をしているだけで、先生方に、「誰を対象に? たとえばどういう事柄を指すのか?」といったことも尋ねることもしないままにして、ただ一人で焦っているだけの状態を続けていました。そして、自分の教会生活も、どこか冷めたような、実はしらけているような状態になっていることを、見て見ぬふりをしている自分がいました。

 家内や、教会の兄弟姉妹に背中を押されるような形で、9月の末に山本牧師の書斎にいきました。「『愛が薄い』自分はこれからどうするべきか?自分の教会における立ち位置はどう考えたら良いですか?」という私の問いに、先生は開口一番子育ての話をしてくださいました。「子どもの要求に全て応えると愚かな人格が形成されてしまう。だからといって、突き放してばかりだと子どもはつまづいてしまう。常に、人格に対して真実に向き合って、生きた親子、家族の営みがなされていないと子どもは真実に育たない」といった内容だったと思います。先生は、続けて「私は牧師になって少し経ったとき・・・30代の半ばだったか、自分がこれからどういう牧会をし、何を大切にし、優先していくべきか決めなければならなかった。私の場合は何より家族であり、子どもたちだった。愛する存在をないがしろにするわけにはいかないと思った」そう答えられたあと、私にとって一瞬意外な、しかし今の自分にとって一番大切な、的を得た答えが返ってきました。「あなたは今自分の生きる範囲を手広くしている。そして、いろいろと自分のことについて発信して、多方面から称賛を得ようとしている。けれども、あなたは私がかつて決断したように、これからどの人を愛し、どこを大切にして生きるか決めなければならないのではないか? 人の称賛ではなく神の称賛を受けることを目指し、何より愛すべき人格、子どもたち、家族をないがしろにしないように、これから少しずつでいい。急がなくてもいいから、自分の生きる範囲を整理していったら良いのではないでしょうか?」というお勧めでした。そしてさらに、「そのように捉えると、あなたが『教会における立ち位置』なんてことばを使うこと自体、ある意味ナンセンスでしょう? 人の称賛を気にしている証拠です。あなたは、気負う必要はありません。ときに人が何と言おうと、『私はこの子どもを愛している』と言えるかどうか、そのような歩みができるかどうかです。」と答えてくださいました。

 私は、先生との話を終えた後、とてもスーッとした気持ちになりました。そして迎えた日曜日、礼拝のあとに体育館で教会の運動会が開催されたのですが、「ここで子どもたちに仕えよう、皆さんの愛に感謝して臨もう」と意識したときに、いつもの運動会より数倍・・・すごく楽しく感じながら参加したことが忘れられません。

 10月は、さまざまな教会行事がありました。特に私の印象に残ったのは教会野球部の合宿・我が家での恒励会(壮年会・家長会)でした。また、山形にある家内の出身教会と、実家にいく機会も与えられました。合宿で、本当に多くの方々に長男が豊かに関わっていただいたこと、恒励会が始まる前、長男が「早く(集会が始まる)7時半にならないかな~」というほど我が家での集会を楽しみにしていたこと、山形に向かう際、子どもたちが『山形おばあちゃん家にいくんだよね?ヤッター!!」と喜んで、二人で手作りのプレゼントを用意していたこと。それぞれの場面に共通することは、子どもたちを心から愛し、真実をもって向き合ってくださる方々がそこにいらっしゃるということです。私自身は欠けも多かったことを覚えますが、教会の中で子どもたちが真実に愛していただき、神の腕の中で育んでいただいていることに、本当に感謝しました。

 私も、神の前に真実である教会の一員として、欠けの多い器でありますが、主の憐みと導きに従う者でありたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)