同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 逃げず、あきらめず —

玉城 義

 私が働く会社の同僚は、よく“諦めたら終わり”と言います。最初の頃は何気なく聞いていましたが、ここ最近その言葉は自分に突き刺さってきます。それは、私自身、また私の家族に欠けていたものだかです。この“諦めたら終わりだ”という言葉も信仰の世界から見ると、ヒューマニズム的でありますが、今の私自身に突き刺さってきました。
 私がイエス・キリストの十字架による贖いを信じ、救われてからここまでの歩みは、神の導きにすぐに従えない、常に神からの問いに対して、私はできませんと逃げて、楽な道を通ってきました。しかし、神の深い憐れみによって、就職、結婚、子供が与えられ、そしてつい先月、私の家族のための家が与えられました。この家が与えられるということも、山本嘉納牧師を通して、一人の兄弟が動いて下さり、当初は、私達には夢の話のようにとらえていましたが、その兄弟はできることを信じて動いて下さり、私達はその兄弟の信仰を信じて従っていき、ついに家が与えられました。
 今、教会の礼拝のメッセージで語られていることは、集いの室を向上させていくということです。私達の教会は、間違いなくキリストの御体なる教会です。その中に私も私の家族も神の憐れみによって、加えさせて頂いていることを思うときに、神に感謝するとともに、集いの質を向上させていくという中での、常に私に問いかけられる神の示しに応えていかなければなりません。私自身、また、私の家族の気質、体質は「私にはできません。」、「どうせ私には無理だ、しょうがない。」とすぐに諦めてしまう。神からの問いかけに自分はあてはまらないと逃げてしまうものです。なんとか、そこから脱出して、その集いの質の向上の中に、共に成長させて頂きたく願っています。
 かの日のイスラエルの民は、カデシュ・バルネアにおいて、カナンの地を占領することができないと諦めてしまいました。しかし、ヨシュアとカレブは、神の御心ならば、神がともにおられ、必ず占領することができると、立ち続けました。その信仰を私と私の家族のものとさせて頂きたいと願っております。

「イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。」
(民数記 14:7-9)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)