同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 神に近づく(18)—

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ 15:4-6)

 「わたしにとどまりなさい。」とイエスは言われました。これは神、イエスに近づき、その近いところに座を占めて動かないことを意味します。
 パウロは、異邦人が神の民に加えられたことを、オリーブの接ぎ木にたとえています。
「あなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれた・・」
(ローマ 11:24)
 イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」と言われましたが、私たちはもともとイエスについていなかったのですから、パウロのたとえと同様に、イエスに接ぎ木されたものであるといえます。
 接ぎ木が台木にしっかりとつなぎ合わされたとき、台木からいのちが供給され、繁り、実をむすぶことができます。
「わたしにとどまりなさい。」とイエスは私たちに命令されましたが、私たちがイエスに接ぎ木されても、私たちがそこにとどまらないことがあるということを意味しています。そしてそのとどまるということは、私たち自身にかかっています。
 よく、黙示録3章20節の「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」というみことばが引用されて、この戸の鍵は私たちの心の内側についており、私たちが開けないと、イエスは去って行かれるといわれます。雅歌の「私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている。愛する方の声。『わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。』」(雅歌 5:2)が対比されます。花婿が戸を開けてと頼んだのに、花嫁はぐずぐずして戸口まで立っていきませんでした。その後、行ったけれども時間がかかりすぎました。花婿は戸口から立ち去った後でした。
 神に近づいて、イエスに接ぎ木されることも、ぶどうの木であるイエスにとどまっていることも、私たち自身がしなければならないことです。知らないうちに、いつの間にかイエスにつながっていたとか、何の努力もなくイエスにとどまっていた、というようなことはありません。
 もちろん、神に近づきたいと願い、近づく努力をする人には聖霊の助けがあります。それは神のみこころにかなう願いです。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(ヨハネI 5:14)と神は保証しておらます。
 「近づく」の反対は、「離れる」です。
イエスから離れる人は、神の前では枯れ木となり、火に焼かれる・・とイエスは宣言しておられます。今一度、神に近づくということがどれほど大切なことか、深くこころにとめておきましょう。
 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ 5:18)とイエスは宣言されました。律法はなんというでしょうか。
「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」 (申命記30:19)このみことばは廃れることがないのです。
新約の時代の私たちには、いのちであるイエスを選びなさいと命令されているのです。
ヨハネの福音書15章のはじめの部分について、アンドリュー・マーレーの「まことのぶどうの木」という小冊子があります。
私たちは自分で聖書を読んでも、その中に深く入り込むことができないで、目が文字の上を素通りするというようなことがあります。ちょうど讃美歌を歌うけれども、歌う動作だけでこころをともなわないということはしばしば起きることであり、きっと皆さんも思い当たることがあるでしょう。聖書を読むときにもそれと同じことが起きます。
 紹介した「まことのぶどうの木」には数多くのヒントが記されていて、私たちをみことばの深みにつれていってくれます。
少し引用しますと、
・・枝はあらゆる点でぶどうの木とそっくりです。性質、いのち、働きなど、どの点から見てもくべつできません。同じように、神を信じる者は神の選びにより、キリストの性格と精神そのものを自分の中に持ち、キリストと完全に一致し、また一致しなければならないことを知っています。ここに「完全な一致の教理」があります。・・
・・「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、(父は)刈り込みをなさいます。」ぶどうの木の持ち主は、実りをもっと豊かにするためにはあらゆる手段を講じます。・・
・・(天の農夫が使われる刈り込み鋏)神は鋏を使われるのではなく、神のことばが鋏なのです。・・