同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 神のシステム —

山田 大

「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」」(ヤコブ 4:13-15)

 もう25年以上前のことになりますが、私が奥中山におりました頃、山本光明先生、和子先生ご夫妻が訪ねて来てくださった時のこと、自然の景色の素晴らしさに和子先生が「素敵ねえ。神様はこんなに綺麗な花を一つ一つ咲かせてくださるのよね」と仰ったのに対して、光明先生が「僕はね、神様が花を一つ一つ咲かせておられるという風には考えないんだ。なんていうか、その仕組を造られた、っていうかな、そんな風に思うんだよ」と仰いました。その時の私にはその深い意味合いがよくわからずに、ただいつものように、光明先生の言われた言葉そのものを記憶していました。
 それから10年ぐらい経った頃、ユダヤ人は何故世界中で商売に成功しているのか、その秘訣は彼らが旧約聖書に忠実に生きていることである、という意味の記事を読みました。その時も、旧約聖書の中にそんなに商売に関係する記載があるだろうか、というように直接的な部分しか考えることが出来ずに、深い意味合いを考えないで終わってしまいました。
 それからさらに10年ぐらいを経て、山本嘉納先生が「神のシステム」という意味のお話を集会の中でなさるようになって初めて私の中で、それらの事柄が繋がるようになって行きました。
 聖書の中に「4つの種」という例え話があります。本来は例え話であり、種は福音の種のこと、蒔かれた土壌は私たちの心のことを意味しているお話ですが、それを文字通りに考えた時、この自然界の中でも、どのような種が、どのような養分を含んだ土壌に、どのような状態で蒔かれ、そしてどのように雨が降り、どのように太陽が照らすか、或いは鳥や茨のような妨害があるのか無いのか、そのような様々な複雑な条件が組み合わされることによって、どのような芽が出て、どのように花が咲き、どのような実を実らせるか、が決まって来るといったシステムを、神がお造りなった、たとえばそのようなことを思い巡らせることが出来るようになりました。
 私たちは、信仰を持つ者として、「運命」というような考え方はしないまでも、時に「ついてない」とか「偶然」ということを考えてしまいます。しかし、すべてのことは繋がっていると考える時、どのような事柄の積み重ねがあってその結末に至ったかを私たちは思い知ることが出来ます。自分自身の傾向性、よく考えること、よく口にすること、よく繰り返す習慣のようなものが知らず知らず一見偶然に見える事柄を引き起こしていたり、身近な人々との関係性もそのように日々の積み重ねで出来上がっていくものが多くあります。否、全てがそうであると言って良いと思います。
 ユダヤ人たちが、旧約聖書の直接的に商売に関係するような事柄でなくとも、細かい事柄に忠実に生き、それが彼らの商売の成功に繋がっていったように、私たちにとっては、ダビデに神から与えられた王家の継続のお約束は、信仰者の継承に大きな示唆を与えます。どのように神を畏れ、どのような事柄に注意して子どもを育て、家庭を治めて行くなら、ダビデの家に王位が継承され、王国が祝されていくように、私たちの家庭が祝され、子どもたちに信仰者が絶えることなく続いていくか、それは偶然ではなく、ラッキーでもなく、一つ一つの小さな事柄の積み重ねであったことが明らかになります。
 神がお与えくださったシステムがわかってくると、その中に生きることが喜びになります。このことを忠実に積み重ねていくならば、神はどのような結末を与えてくださるか、そのことを楽しみに信仰生活を送ることが出来ます。
 冒頭の聖句は今年、年頭に与えられたものです。ヤコブは商売熱心で先のことばかりに思いを馳せて心が逸る同胞のユダヤ人たちに、目の前の事柄を一つ一つ積み重ねることの重要さを教えています。それはまさに私に対する神の示しでした。そのようなことを導いてくださる先生方の導きに従いながら、同信の兄弟姉妹とともにこの神の道を歩んでいけることを本当に楽しみながら、尚、目の前の事柄を積み重ねることに励まさせていただきたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)