同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— バテ・シェバ —

 ご存じの通りマタイの福音書はイエス・キリストの系図で始まる。
 バテ・シェバはイエスの系図に載っているのに名が書かれていない。ダビデの妻、ソロモンの母であるのに、ウリヤの妻と書かれている。

 信仰書、キリスト教関係の文書には、彼女についてよくない評価が多いように感じる。ある書には「妖婦」と書かれ、またある書には「毒婦」と書かれていた。その評価の所以は、バテ・シェバが積極的にダビデを誘惑したのだと考えるからである。

 できるだけ、自らの先入観や先に書かれた文書の意見を排除して・・・・イエスの時代の、律法学者、パリサイ人たちが陥った「先祖の言い伝え」に嵌まらないように・・・バテ・シェバに関する聖書の記事を読んでみた。
 聖書の記事はこうである。
彼女は、体を洗っているところをダビデに見られた。裸だったとは書いてないが、衣類を身に着けたまま体を洗うことはまずないであろうから、恐らく裸を見られたと解してよいであろう。
しかし「積極的に見せようとした」とは書かれていない。予期しない状況で見られたと解する方がすなおな聖書の読み方である。
 彼女は、王の命令で呼ばれるとそれに従って王と関係を持った。
 彼女が「私は夫のある身です」と抵抗したとは書かれていない。彼女は、ブドウ畑を譲ってくれと、アハブ王に言われ、「先祖の譲りの地は他人に譲り渡すことができません」と言って断ったナボテのようではなかった。

 しかし、聖書はこう付け加えている。
「ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。」
(サムエル記Ⅱ 11:26)
この記事は、彼女の積極性(自らダビデを誘惑した)を否定しているように思われる。
もし彼女が夫を捨て、ダビデのもとに走ろうと画策したのであったら、彼女は夫ウリヤのために悲しまなかったことであろうし、聖書にこのように記されることもなかったであろう。彼女はこの件には消極的であったと理解してよいであろう。
 神はダビデを取り扱われたが、バテ・シェバを取り扱われた記事はどこにもない。神はダビデと同罪であるとは見なされなかったことを意味するであろう。バテ・シェバがダビデを誘惑したのであるなら、その罪はダビデより大きい。

 私たちは聖書を読むときに推測を加えるが、十分確かな推測と、「かもしれない」という程度の推測がある。「かもしれない」程度のものがいつの間にか「確信」になってしまわないようにしたいものである。