同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 真の人となられたイエス —

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテⅠ 2:5)
「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」(ヨハネⅠ 4:2)
「人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」(ヨハネⅡ 1:7)
「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」(黙示 19:13)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ 1:14)

 冒頭に引用した聖句を考察するならば、「イエスが真の人になられた」ことをきちんと理解し、こころに納めておけるか否かは、私たちの信仰を左右する重要事であることが分かります。
 7年前の12月号のこのコラムで、同じテーマを取り上げましたが、今ひとつ皆さんの興味、関心を引き起こすことができなかったように感じました。それでまた取り上げたいと思います。
 前回の文をそのまま引用しますが
・・・
 イエスが真の神であられると同時に真の人であられるということが、キリストを信じている人々の共通の理解です。それに異論を唱える人は、キリスト者とは言えません。
 しかし、・・こういう述べ方は、論説に相応しくありませんが・・筆者がそれを正しく理解できるまでに長い年月がかかりました。長い間持っていたキリスト像は、半分は神であられ、半分は人であるお姿でした。ですから、イエスが神殿をたづねて律法学者たちの教えを聞いて学んだように、学習される必要があったことが奇異に感じられました。彼は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ 8:58)と言われた方、「イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。・・
・』」(マタイ 9:4)と書かれているとおり、人の心の様、その理解していること、その思い、その意図していることを知っておられる方であるからです。
 数十年の信仰生活を経て、筆者の持っていたキリスト像は変わりました。「イエスは真の人間であられた」と。よく、どこを切ってもと表現されます。イエスは、いかなる断面で捉えても、彼は真の人間であられました。母の胎にやどり、胎内で成長し、月が満ちてお生まれになりました。お生まれになった後もすべて人間であられました。知力も知識も能力もすべて人間のものであられました。人の能力を超えた業をなされましたが、それはすべて聖霊によるのであって、人間も神のお許しがあるなら同一のことを聖霊によってできるのです。
 ・・・・

 皆さんのイエス・キリスト観をことばに表現してみてください。きっとかつての私同様、半分人で半分神であるのではあるまいか、と私は想像します。前回の引用文にもありますが、イエスはなぜ学習が必要だったのでしょうか?イエスは人間と全く同一の条件下で成長と共に学習をされたのです。イエスが自分は神の子であることを知っていたのはいつからか分かりません。幼少の時の表現として物心がつくといいますが、イエスは物心がついた時点ですでに自分が神の子であることを知っていたのであると、12歳の時の発言から推定できます。
 福音書にイエスが病気になられた記事がないから、イエスの肉体は病気になることが<できない>体であったと信じる人々がいます。それでは、真の人間ではないことになります。人は病気になることが<できる(ありうる)>存在なのですから。

 母の胎に宿った時から、十字架の死に至るまでイエスは<完全に>「人間」であられました。

 イエスが奇跡を行い、神としての力を発揮したように思われるでしょうが、それは「聖霊」が働かれたのであって、イエスが半分神としての力を発揮したのではありません。
「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ 11:20)
これは、律法学者パリサイ人たちがイエスを悪霊の頭によってこと力を発揮しているのだとけなしたことにイエスが反論された箇所で、この神の指は聖霊を指しています。
「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」(マタイ 3:16)
「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。・・預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。・・」・・イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
 このクリスマスの時に、もう一度自らのイエス観を考察し、「人として来られたイエス」を告白するお互いでありましょう。