同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— アブラハムのしもべ —

 本コラムは、他のコラムが重厚といえるようなものなので、ちょっと息抜きを兼ね、軽口のなかにちょっぴり核心をつくものがあれば(いいな!)ということがねらいであった。しかし、書いたもの読み返してみると、これは「かす!」、で終わってしまうものあり、これは(いいぞ!)と自画自賛するものあり、できは仕上がってから・・てなぐあいである。
 さて今回は、はじめから軽口ではなく、ぎっちりと重い内容を書いてやろうと意気込んでいる。

 さてご存じの通り、アブラハムのしもべといえば、アブラハムの息子イサクのために嫁さん探しに行った人物である。
あちこちの教団に、アブラハムのしもべの会・・名前はどうあれ、所属する教団、教会の若者たちに伴侶をさがす、というのがその使命である。どのくらい成果をあげておられるかは、知るよしもないが。

 さて創世記のこの記事を読むとき、これほどの緊張をもって使命に取り組んだ人物はそういないように感じる。
 彼が受けた命令は、アブラハムの生まれ故郷に行って、そこからイサクの嫁さんを見つけてきなさい、というものであった。今住んでいるカナンの地の女はだめであるし、女がこちらに住んでくれるなら嫁ぎますといってもそれはだめ、イサクをここから連れ出してはいけないという条件がつけられた。
 と、ストーリーは皆さんもよくご存じである。

 このアブラハムのしもべは、その使命を「必ず、果たさなければならない」ものとして受け止めた。見つかればよし、みつからなければ「仕方がない」というようなものではなかった。
 彼は「信仰の人」であった。「アブラハムの神」を固く信じていたことは疑う余地がない。彼はアブラハムの故郷に行ったとき、取り立てて「つて」があったようには思われない。彼は人を頼らず、神に頼った。
 主人の息子の妻となってくれる人は、来てくれさえすればどんな人物でもよいのではなかった。彼が主人の息子の妻となる人物につけた条件は、水を飲ませてください、と頼んだら、ラクダにも飲ませてあげましょう、といってくれる人であった。当時、旅人をもてなす習慣があったそうだが、10頭のラクダに水を飲ませるということは大変な重労働で、それを買って出ることはありえないというほどのことである。
 聖書の記事はこうである。
・・・彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」・・・
(創世記 24:11-14)
 彼の祈りは豊かに応えられた。
・・・
こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。・・・
しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。
彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
・・・(創世記 24:17-21)
 さらに、リベカの親と実権をもっていたと思われる兄に、「このことは主から出たことですから、わたくしたちは善し悪しいうことができません。」とのことばを引き出し、リベカから「行きます」ということばをひきだした。

 さて、今日皆さんに訴えたいことは、まず神から「使命を授けられたい」ということである。「アブラハムのしもべの会」の人々の使命はもう決まっているが、他のひとはそれぞれ別の使命を与えられることでろう。
 その使命を、アブラハムのしもべが、主人の息子の嫁さんが、「見つかればよし、見つからなければ仕方がない、帰ろう」というようなものでなかったように、私たちもそれを「必ず果たさなければならない」ものとして取り組みたいものである。
 使命がないところには、知恵も浮かばないし、祈りもない。祈りがなければ成功もない。成功がなければ喜びもない。

 使命を与えられた神は、アブラハムのしもべを成功させなさったように、私をも成功させなさると信じるとよい。すべては信仰からはじまる。
 アブラハムのしもべの緊張をもって事にあたることにしよう。