同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 全き愛、全き者 —

saitosan

齊藤 望

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」 (ヨハネⅠ 4:18)

早くも一年の半分が過ぎ年頭に与えられた御言葉をもう一度顧みることができ感謝しています。
 同労者の原稿を書き始めて改めて半年を振り返れば、多くの恵みがあり導きの中に歩んでいるとの確信があり、同時に多くの困難をも抱えていた現実がありました。
昨年12月より新しい場所への引っ越し、店舗の移転営業、体調の不良と不安だらけのスタートでしたが、しかし神は困難の中にあってもいつでも必要な知恵と訓戒と教えを牧師先生の説教の中や祈りの中で示して下さり、乗り切ること、切り替えることができました。
 今年は冒頭の聖句の中の“全き愛は恐れを締め出します。”を心に持ち続けて祈っています。
 私にとっての全き愛の対象は子供たちとその家族です。
 私の3人の子供達のため、またその家族のために健康と信仰が守られるよう祈っています。特に教会から離れていった子供のためには信仰の回復を願って祈っています。
彼ら(2人)には神に感謝すること、常に守りの中にあり、神と人との関係が途切れないことを話しています。なかなか遠くにいて会う機会が少ないのですがその度祈って、彼らと神との距離が少しでも近くなるように願っています。
 失われた魂を見出し連れ戻すためには恐れてはいられないしさらに大きな愛を持って迎える放蕩息子の父のようにそこに帰れば愛があり、自分が罪深いものであると思わせることができるよう私自身の信仰を整えていくことの必要を感じています。
 礼拝のメッセージでアブラハムの信仰を通して私たちに「客観的に自分を見つめ、主体的に行動する。」と語られました。この説教を伺った後に自分を顧みた時に自分が小さく、みじめで、愛の無い、自分勝手な者であることがわかりました。それが神から見た私の姿であり、そんな私さえ神の愛の中にあり導かれていることに感謝します。
 アブラハムは神に求めることは何もしなかったが大きな祝福があり、約束が与えられそれが神との契約になっていくことを見るときに、神の前を歩く全き者とはどういう者なのか、客観的に見た自分の姿と重ね合わせながら修正しつつ全き者に近づきたく願います。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」 (創世記 17:1)
(仙台聖泉キリスト教会会員)