同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(11) —

野澤 睦雄


「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル 11:6)

1.救いに至る道

 ・救われた人の実例

 キリストによる救いは、「あかし」すなわち先に救われた人の証言を聞いてそれを信じることによって与えられます。
それで救われた人の実例を考えましょう。  その実例を、幼い子どもの時から教会の中で育った人々と、不信者の親たちに育てられたひとびととの2種類に分けて考えたいところですが、教会の中で育ったといっても、各教会の風土はいろいろでひとくくりにできないことでしょう。それで教会の中で育った人々のなかから、このようにして育ったと特定を加えることにします。

 信者の両親のもとで育ったひとたちの例として、
<仙台聖泉キリスト教会で育った人々>
をご紹介します。
 教会の中で育った多数の青年男女が救われました。今は教会の働きの中堅を担う人々にキリスト者2世もいますが、3世、4世が中心になっています。彼らは、生まれるとまもなくから、礼拝、祈祷会、伝道会を親たちと一緒に守って育ちました。教会学校など他の集会も、もちろんたくさんあります。
 成人し、自らの罪を自覚するようになったとき、彼らは、
・自分の罪は、人に対するものであると同時に神に対する罪であることを知っていました。
・イエス・キリストが救い主であり、自分もその救いに与ることができることを知っていました。
・その救いは罪の赦しであることを知っていました。
・牧師のところにいき、罪を言い表して悔い改めればその救いに与ることができることを知っていました。
 どうしてそれを知ったのか、それは教会の中で「救い」が説教に語られ、「救いの証し」がされるからです。そして教会の中では、救いこそ世の他の何にも勝って素晴らしいものであるとその価値が評価されています。救いは滅びの人生から生きた人生にひとを変えるものであることが証言されていますし、身近な人の変貌を見せられます。教会のなかで得られる交わりも憩いもすべて救いの先にあることが分かります。ですから、自分の人生に破綻を感じたとき、救いに与ろうと考えることができたのです。
 彼らは一人の例外もなく、牧師の元に行き、罪を悔い改めました。そして、そのようにして、救いの恵みに与らなかったひとはひとりもいません。
 彼らはキリスト者同士で結婚して、クリスチャンホームと呼ばれる家庭をつくり、自らまた自分の子どもたちと一緒に、教会の集会を守っています。
 先に罪を言い表して悔い改めることの必要なことを強調してきましたが、以上のできごとにその実例があります。  単に親が信者であるというだけでは足りません。信者の親に育てられても、救いが語られる教会の集会に出席せずに成人したひとは、ひとによって差があるでしょうが、前述のひとたちのように信じることはできないことが多いでしょう。

 <不信者の親に育てられたひとたち>は先に挙げた人々のようにはいきません。人に対する罪は認められるかも知れません。しかし、それが神に対する罪であるといわれても、納得がいかない場合が多いことでしょう。
 仙台聖泉キリスト教会の信者で不信者の両親のもとに育ったひとりの姉妹のあかしを聞くことができていますので、それを一例としてご紹介しましょう。
 この姉妹は福島県会津地方の出身ですが、高校を卒業して仙台に来ました。昼は会社勤めをし、夜学の大学に入りました。彼女の勤め先は、仙台聖泉キリスト教会の信者が経営する会社でした。三浦綾子の本を読んで、ぜひ教会に行ってみたいとの思いがありました。その思いにつながるように、キリスト者の家族が経営する会社に導かれていました。仕事をしているうちに勤め先の方から「教会の集会に出てみませんか」と誘われ、集会に出席するようになりました。そのまま時が過ぎて、まもなく大学を卒業する時期が近づいてきました。そのとき同じ大学に通う男子学生が彼女に好意をよせ、「卒業後結婚してください」と彼女にいいだしました。
 それを聞き知った勤め先の社長は、これは大変、そのまま進むと彼女は教会と関係のないひとになっていくと考え、彼女を牧師のところに連れて行きました。彼女の意志ではなく、社長にひっぱって行かれたという感じでした。それで牧師の個人伝道を受けました。
 牧師は彼女に選択を迫りました。
「あなたはその男性と一緒になって、今までのように世の中で生きていくことを選びますか。それとも神を信じてこの教会で生きていくことを選びますか。」
そのとき彼女は、「自分はこころに満たされないもの、虚しいものを感じて教会に誘われる事に応じた。もしその男性のもとにいったら、この虚しいこころのままずっと生きていくことになる。」ということが自分で分かりました。それで彼女は、「教会で生きていくことを選びます。」と答えました。
 そのとき彼女のこころに深い平安がきました。それでこれでよいのだと思いました。  これが、彼女が救われた瞬間でした。神も、キリストも、罪も、救いもその内容が理解できたのは救われた後のことでした。
 選択した通り彼女は教会の中で生き、2世信者の青年と結婚し、同じように子どもを育てました。彼女の息子も救われ教会の中で結婚して子どもができ、彼女は孫と教会にいます。夫から数えると孫はもう4世信者です。
 彼女の救いには、神の摂理の御手と聖霊の助けがあり、彼女のために労した人々がいたと感ぜざるをえません。
 不信者の世界から救われて教会に加わったひとたちはそのように、救われてから神の世界を知ることが多いでしょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)