同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 誰が、隣人になったと思いますか? —

石井 和幸

「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』(ルカ10:29)
「『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。』彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』(ルカ10:36~37)

 10月初旬、ちょうど会社で先月分の請求書を出し終えたころに、私は仕事のことで妻に対しある指摘をしました。
私自身、客先との交渉に悩む妻にアドバイスのつもりで言葉を発したのですが、私は他の件と合わせて、責めるような態度で指摘をしてしまい、しかも彼女の悩みを軽んじているかのような対応をしてしまいました。
妻は私に対して憤りと悲しみを覚え、その気持ちは消えませんでした。
私は、自らの経験に基づいたアドバイスだったので、自分は折れたくないと思いつつも悶々とした日々が続き、私自身日々の行いがおかしくなっていくことを感じました。
ある仕事を私が誤解したまま受け止めたことを妻に詫びた際、「どうして私が怒りをもち続けているか真剣に考えてほしい。」と言われた土曜日、私は一人で仕事(店番)をしました。
3件、お客様とのやりとりをするなかで、3件とも私は不満を抱き、他の人に対して心のなかで不備を責めたりしている自分でありました。その日を振り返った際、今年6月発行された同労者260号の、このコーナーにて「主の前に静まり、怒りを治める」ことを証ししたはずなのに、元の自分本位の姿に戻っていることに気づきました。冒頭の聖句・・・ルカ10章29節は礼拝説教のなかで開かれた聖句であります。
「自分の正しさを示そうとして」ということばが、礼拝で語られたときは正直ピンとこなかったのですが、「私の隣人とはだれですか?だれが私の隣人になってくれるのですか?
その人に自分は正論を示しているではありませんか」と言っているのは私自身であることに気づきました。
けれども、イエス・キリストが示されたことは、「あなたは、その人の隣人になっているのですか?」ということだったのです。隣人と結局対峙してしまい、悲しませて結局本当の意味で味方になっていない、自分本位で隣人とともに生きようとしていない姿を示されました。
それは、妻に対してのみならず、会社の職人さんに対してもそのような態度であることを示されました。
主は繰り返し私に変革を示してくださいました。私は自らの行いを改め、もう一度主の前に遜りくだり歩ませていただきたく願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)