同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-15 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 「義の訓練」について考察を進めましょう。知識はあるが信仰に中身がないということをどうしていったらいいでしょうか。確かに信じてはいる、そうだと思っているけれども、その内容が「知識でしかない」ということがあります。それを信仰と呼んでいいのか微妙ですが。
 信仰の大切の問題は、「神のことばを経験すること」で、それが「確かめた信仰」すなわち「確信」のもとになります。
 例として引用しますが、ダビデがゴリヤテに立ち向かったとき彼はサウルにこう言っています。 「ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」(サムエル記Ⅰ 17:34-36) このときサウルは全く気づいた様子がありませんが、ダビデは以前からサウル王の楽士、竪琴の弾き手でした。彼がその役目に選ばれたとき、王の家来の若者がこう言っています。
「そこでサウルは家来たちに言った。「どうか、私のためにじょうずなひき手を見つけて、私のところに連れて来てくれ。」すると、若者のひとりが答えて言った。「おります。私はベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」そこでサウルは使いをエッサイのところに遣わし、「羊の番をしているあなたの子ダビデを私のところによこしてください」と言わせた。」(サムエル記Ⅰ 16:17-19)
ダビデは竪琴の名手であるだけでなく、勇士、戦士、ことばに分別がある人、体格がよい人、主がともにおられる人、であると報告されました。恐らくさらに「羊の番をしている人」であることも。
 羊の番をしている若者が、勇士、戦士と評価されたのは、恐らくこの獅子と熊を撃ち殺したことが世に知れ渡っていたからでしょう。羊飼いの持っている武器は、せいぜい草や灌木を刈り払うために使う短い山刀、投げつけて使う棍棒、羊を誘導するための杖、そして投石の袋くらいのものでしょう。それらで獅子と戦うことはとてつもないことです。ですからこのような彼の評価が世に伝わったのでしょう。
 その少し前にサムエルが父エッサイのところに来たとき彼はまだ一人前に扱われていませんでしたから、恐らく17才くらいだったのだろうと推測しています。確かな年齢が書かれている聖書箇所があったら教えて頂きたいと思っています。
 この経験は、ダビデにとって非常に大切なことでした。獅子や熊を殺すことを許された神は、あのペリシテ人の大男をも撃ち殺させてくださると「確信」していました。
その確信がゴリヤテに立ち向かう勇気を生みました。
 信仰生活上におきてくる課題、問題に対して、神の助け、導きによってそれを乗り越える経験、それが「信仰経験」となっているとよいのです。それによって、次に当面する課題に「信仰によって」取り組むことができます。そのようにして聖書が「知っている」ことから「経験している」ことに変わるのです。
 ダビデのようなすごいことでなく、私たちが日常当面する小さな課題でも、信仰によってそれを切り抜けることができたとき、それを「信仰経験」として記憶するのです。 そのように導かれることの中に「義の訓練」があります。