同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 福音の一筋 —

森田 初実


「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」 (詩篇 143:10)

 今年与えられてスタートしたみことばです。
 去年の年末に長男夫婦に第2子が生まれました。予定日より早く生まれてきたのですが、母子共に守られて皆で神に感謝致しました。
 年末年始の休みが明け、3才の孫娘が約一ヶ月間、一時預かりの保育園を利用することになりました。本人は今までとはちがう生活へと一変することになりました。
私も少しお手伝いできればと思い、孫娘の保育園の朝の送りをすることになりました。
 彼女の教会の中での様子は、皆に愛され、育まれ、とても社交的なところがあります。いつもニコニコしていて誰に対しても自ら話しかけていく子供です。そのような元気のよい彼女は、保育園に行っても彼女のペースで楽しく過ごすのだろうと私はそのように感じていましたが、慣れない環境が3歳の彼女にはコントロールするには大変でした。朝、長男(父親)が孫娘を我が家に連れてくると、彼女はもう「保育園へは行きたくない」と泣きはじめてしまうこともありました。車にのせて保育園に向かう時、ずっと車の中で泣いていることもあり、私もとても辛くなりました。始めは保母さんに孫娘を預けるとき大泣きして「ばあば、ばあば、行かないで」と泣き叫ばれましたが、私は「お願いします」と頭を下げて先生にお願いして急いで玄関を出て行ったことです。そして私も仕事に向かうのですが、車の中で私自身も涙をこぼしてしまうような時がありました。私たちは保育園に行く前に2人で手を合わせてお祈りをしてから出かけ、保育園生活が守られてきました。そして子供の成長の速さにはびっくりします。私にとってこの期間、孫娘と過ごすことができたことに神に感謝しています。長男夫婦が近くにいて毎週の集会ごとにお互い、顔を見せることができます。これは当たり前のようであって当たり前ではなく、私は心から神に感謝しています。
 私の心は以前は本当に神無しでした。上辺は信仰者のように見せていましたが、いつでも自己中心で傲慢な者でした。しかし、神は私のような者のために忍耐し続けて下さいました。
 先日、礼拝でメッセージされました中に、霊的盲目はどのようなことであるかが語られました。私はまさしく心が神に対してまったく閉じていた者でした。心の目が開かれていなかったのです。その期間本当に大きな損失をしていたことに、心から神と共に歩みたいと自らの罪を告白し、救いを与えていただいた時に知らされました。神と共に歩みたいと心から願った時に、自分の心がどれだけ神の価値観から離れていたかを知らされました。以前の私の心は、全てが私中心で自分を動かしていました。しかしそこから解き放たれて神を第一とすることを大切にする時、心に平安が与えらえました。でもそれと同時に私が神無しで生きていた時の賠償はとても大きなことでありました。それに対しての痛み、苦しみ、悩みを持ち続けながらも、でも、このような私でも神が共に歩んで下さるという恵みをいただき、尚、謙りの心をも教えて下さいます。
 三年前に召天した母は、私に「神と共に歩む営みは、はじめは一つ一つが点のように思えるかもしれないけど、それは歩み続けていくとひとつに結ばれた線となることがわかるのよ。」と話していたことがありました。集会の中でも牧師先生がよく話されるメッセージであることに私の心が変えられてからよく心にとまることです。小さな営みをも神と共に大切に歩ませていただく時に、長い線となってそれが福音の一筋へとつながることに私を用いていただきたいと願います。  小さな孫娘との交わりの時間を与えて下さる神に心から感謝致します。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)