同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-18 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 「神の人」それはイエス・キリストを信じている皆さんのことです。あちこちに書いていますが、皆さんは堂々と「私はキリスト(神)の者(人)です」と言っているではありませんか。「クリスチャン」とは「神の人」という意味です。「私はクリスチャンです」ということばの重さを自覚しましょう。ですから、皆さんがイエス・キリストに対する信仰によって救いを受けたときから、「信仰生活」がはじまり、すべての良い働きができるように整えられた者とされる義の訓練を受け続けるのです。
 聖書に登場する人物は皆「義の訓練」の見本です。アブラハム、イサク、ヤコブの生涯を考えて見て下さい。王たち預言者たちもみなそうです。新約聖書の登場人物たちも皆義の訓練の見本です。ですから、聖書は私たちが神に義の訓練をしていただくために有益なのです。聖書中のある人物は、模範として学ぶべきひとですが、まねてはいけない失敗の見本のひともいて、その方がたくさんいます。同一の人物でもその生涯に、ときには失敗の見本となり、ときには良い見本となることがでています。
 具体的人物の例として、さきにダビデとソロモンを取り上げました。今回は時代が遡りますが、モーセについて考えてみましょう。
 モーセの誕生のときは、エジプトの王パロの命令が厳しくなり、生まれた男の子は全部ナイル川に投げ込まれていました。
彼の両親は、パピルス(日本では「葦(あし)」あるいは「よし」と呼んでいる植物の仲間)製のかごに瀝青(石油の原油の揮発分が揮発した残渣、揮発の程度によってコールタールからアスファルトまで変わります)と樹脂(「やに」、「松やに」は容易に見ることができます)を塗ったものにモーセを入れ、ナイル川の葦の茂みに置いたと書かれています。(出エジプト記 2:3)「瀝青」も「やに」も粘着性と撥水性に富んだものです。連想するのはノアの箱船で、ノアはゴフェルの木(文語聖書では松の木となっています)で船を作りそれに「やに」を塗りました。文語聖書には「やに」に瀝青という漢字が当てられています。
  その時モーセは生まれて3ヶ月でした。出エジプト記には書かれていませんが、ステパノの説教のなかにそう述べられています。(使徒の働き 7:20)またヘブル人への手紙にもそう書かれています。(ヘブル 11:23)
 そうして彼はパロの娘に拾われ、エジプトの王女の子とされましたが、しばらく乳母として実の母のもとで育てられました。何歳まで母のもとで育てられたか書かれていないと思いますが、「その子が大きくなったとき」(出エジプト記 2:10)母はモーセをパロの娘のところに連れて行き、彼は王女の息子となりました。大きくなったといっても、まだ幼少の少年であったでしょう。しかし、その期間が重要でした。彼は自分がヘブル人であることを知り、神を畏れる事が身につきました。
そしてパロの王宮で育ちました。そこで彼は、当時の世の最高の文化、文明の地であったエジプトの学術を身につけました。モーセは律法を記すための基本的な技術をそこで得たのでした。
 学術の点について、スポルジョンはこう言っています。
・まず聖書を学べ。私たちの主な仕事は聖書を学ぶことである。聖徒たちを慰め、罪人に罪を悟らせる、優れた有効な説教ができなければ、たといすばらしい詩を書くことができても何にもならない。
・神学を十分に学べ。神学を知らない人のあざけりを気にしてはならない。
 霊感された聖書に優先権を与えたなら、
・知識のどの分野もなおざりにしないようにせよ。・・恩寵があふれている時、学識があなたを高慢にしたり、福音の純粋性を傷つけたりするようなことはない。あなたがたの持っているもので神に仕えよ。もしあなたが雄羊の角笛のようであるなら、神が吹き鳴らしてくださることに感謝せよ。しかし銀のラッパになる可能性があるなら、それを選ぶようにせよ。・・
 モーセについては、ステパノの説教(使徒の働き 7:17-44)とヘブル人への手紙(11:23-29)が解釈の導きなります。
 40歳になったとき、「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられる」(使徒 7:25)と思い、それは事実でしたが、その時はまだ来ていませんでした。それでミデアン人の地に逃亡し、40年羊飼いをしました。そこが彼の第二の義の訓練の場となりました。アブラハムもイサクもヤコブもヨセフも皆羊を飼いました。フィリップ・ケラーの「羊飼いが見た詩篇23篇」を読むと羊を飼うことがいかによい訓練となるかわかります。
 80歳になって、神が彼をエジプトに派遣されました。彼がイスラエルの民がエジプトを出、カナンの地に入る直前までよくその任務を果たしたことはご存じのとおりです。モーセはそのひととなりの柔和なこと世のすべての人に勝ったと書いてありますが、腹を立てて失敗しました。神に「岩に命じなさい」と言われたのに、岩を打ち叩いてしまったのでした。
「彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。」(詩篇 106:32)
繰り返しますが私たちの信仰生活も義の訓練の連続です。モーセの轍を踏まないように、神を畏れて生きなければなりません。