同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 打たれた岩 —

「主はモーセに仰せられた。「・・・あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」(出エジプト記 17:1-7)
「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(コリントⅠ 10:1-4)

 今年は、4月10日(日)がシュロの聖日で、受難週が始まり、17日(日)がイースターです。例年のことですが、この時にあわせて主の受難、贖罪の死と復活について思い巡らしたいと思います。
 このことについて、パウロがコリントの教会に書き送った手紙のなかの一言、「その岩はキリストです。」がこころにとまります。その岩は出エジプト記と、民数記に書かれていて、神のモーセに対するご命令は、出エジプト記では「岩を打て」、民数記では「岩に命じよ」でした。
 イスラエルの民は神を信じないで、ことある毎に不平をならし、打たれなければならない民でした。その民に代わって岩、すなわしキリストが打たれたのでした。
パウロのいう御霊の食べ物はマナ、御霊の飲み物は岩からでた水です。イエスご自身もイスラエルの民が食べたマナは天のパンの象徴であり、イエスの体を指していること、岩から出た水、いのちの水はイエスの血を象徴していることを語られました。(ヨハネ 6:47-59)
 民数記に書かれた岩の記事は、「主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」(民数記 20:7-13)で、イエスの次のみことばに対応します。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ 7-37-39)と言われたイエスのことばが成就し聖霊によるいのちの水の流れが信じる者のこころから流れ出ることを象徴すべきものでした。しかしモーセがそれを台無しにしたのでした。