同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステ —

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ書 6:1-7)

 新約の時代はペンテコステによって始まったこと、イエス・キリストの十字架と復活による贖いがその基礎であったことを、少し教会に通い続けたまともなキリスト者であるなら理解しているでしょう。
 それにも関わらず多くのキリスト者が、ペンテコステを経験していないし、聖潔に生きていないのにそれを受けることに力がはいっていないように思えます。
 なぜそういうことが起きているのでしょうか。その原因は神の聖に触れていないことにあります。ペンテコステに与っていないひとは、自分が何者か、自分の汚れた姿を理解していないのです。しかし神の聖に触れるとイザヤのように叫び出すでしょう。「ああ私は汚れたものだ!」
 自分の汚れを悟らせてくださる神は、私たちのうちに神の聖に対する畏れと願望と、神はこのような者をも聖くしてくださるという信仰をもお与えになります。
 大切なことは神の聖に触れることですが、どうしたらそれができるのでしょうか。
神はこう言われます。
「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。──主の御告げ──」(エレミヤ書 30:21) 神に近づくことに力を注ぐ必要があります。神は「求めなさい。そうすれば与えられます。」と言われる方、その求めが、地上の宝でなく、神に近づくことに向くとよいのです。そうして、自分の汚れに気づき、なにがなんでも神の聖に与らせて頂きたいと叫び出すことです。
 イエスの約束された「平安」(ヨハネ14:7)と「喜び」(ヨハネ15:10)はペンテコステの先にあります。それを受けることなく、「平安」と「喜び」だけを頂こうとしていることは愚かです。イエスは「平安」と「喜び」を与えたいと願っておられるのですから、まずペンテコステに与ることを求めましょう。大切なことは、自分がまだそれを受けていないこととそれを求めていることを公言することを恐れないことです。恵みを受けた人は証しすることを恐れませんように。