同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

地の塩として ~従順と個性~

石井 和幸

「あなたがたは、地の塩です。」(マタイ 5:13)
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 (II コリント 9:7)

 私の会社に経営コンサルタントが導入されてから4年がたちました。管理者教育プロジェクトと、若手・中堅社員育成プロジェクトに分かれて、定期的に研修が行われます。
 後者は、当初は営業社員全員に強制されましたが、導入2年目からは希望者を募る、任意の参加となりました。・・・その理由は、いやいやながら、またプロジェクトに対して何らかの疑問をもちながら参加しても、良い効果が生まれないからです。(とはいえ、今も上司からの打診はある程度ありますが)
 私は今年から、従来属している営業一課(販売中心)の仕事に加え、営業二課(工事中心)の仕事を兼任することになりました。タイプの違う2人の課長に仕えることになったのです。二課の課長は私に、「まず頭の中をまっさらにして話を聞いてほしい」と言いました。それは、一課で今まで培った経験、知識、技術から、意見・提案があったとしても、まずそれを脇において、先入観を持たないで素直に二課で行う仕事・やり方を覚えてほしいと言う意味でした。社会において、例えば転職等で他の会社に入社して間もなく、前の会社でのやり方等を述べるのはタブーです。聖書には「神への従順」がいかに信仰を築く上で大切かが記されています。神の前にへりくだって、まず自らの心、思いをまっさらにしてみことばを聞く姿勢は大切です。
 中学・高校時代の私は、一つの事を先生や先輩方と共同で行おうとするときに、とにかく自分が思う最善の方法をとるべきだと考えていました。意見が合わないときは、先生や先輩のやり方を押しのけててでも最善をつくすべきと考えていました。教会生活を続けるうちに、それは間違いであることを教えられ、気づかされましたが、大学生、社会人になっても、時には心でつぶやきながら奉仕したり、頼まれ仕事で、主旨や目的を理解せず中途半端に終わらせてしまったりということがありました。結婚が与えられるまで、何度も「従順」について神のお取り扱い、憐れみをうけたことは以前にも証しした通りです。
会社で営業二課の業務を行い、課長と一緒に労苦をともにしていたある日、課長から「オレが上手くいかないような商談を、石井君は上手に進めるときがある。それは君の個性が活かされているんだよ」と言われました。私が普段仕えている態度に対する課長からのねぎらいの言葉であると捉えることが出来、「従順」に対する意欲がなお湧いてきました。そして、課長がいう「個性」には今まで一課での経験・技術も含まれています。従順に生きる中に、いつのまにか自分にある「個性」も活かされていたのです。
 キリスト者の学生から、「社会人になって、地の塩として証をたてるために、何をしたらいいか?」と質問をされるとき、まず私が答えるのは「従順」と「個性」です。時には納得がいかないことがあっても、つぶやかずに、建設的に事を行うこと。その一方で、飲酒・任意の日曜出勤への対処等、一線を画すべき問題を明確にすることです。そして、「教会で通用しても、社会では通用しない」と考えるのではなく、教会で教えられてきたように、『人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい』(エペソ6:7)と語ります。
 最近は、神学教育と合わせ、社会経験を積ませてから牧師認証をする教団もあると聞きますが、本来からすれば、私たちが地の塩として世に遣わされるのは教会からであると私は信じています。忘れてはならないことは、会社においては自らの経済のために仕えますが、キリスト者の生涯は、神が人に与えたもう自由意志において福音の恵みに与り、従順をもって個性を活かし、そのいのちを次代に受け継いでいくのだということです。教会はそれが成されるキリストのからだであり、私もなおそこに生き続けていることを覚えつつ、新年度の歩みを始めています。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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