同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第41回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 「神を畏れる」ということについて考察しています。それが明らかになるように、その反対の「神を畏れない」とはどういうことかを考えておきたいと思います。  「神を畏れない」とは「神を侮る」ことです。神を侮った人物の記録が聖書にあります。そのひとつが、祭司エリの息子たちです。その行状はサムエル記第一2章12節から16節に記されています。その評価は神の前に、 「このように、子たち(エリの息子たち)の罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。」(サムエル記 I 2:17)であって、ささげ物を侮ったと表現されていますが、主ご自身を侮ったのです。 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ 6:7)と書いてある通り、エリの息子たちはその刈り取りをすることになりました。  父親のエリは、行うべきことを行わなかった罪を神に咎められました。 「わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。」(サムエル記 I 3:13) 律法の規定はこうでした。 「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」(申命記 21:18-21)  これを守った親の記録は、聖書の中には一例も書かれていません。エリはこの規定に直面したひとりでしたが、せいぜい小言を言うくらいでした。  ダビデも息子アムノンの悪しき所行に、怒っただけで、何もしませんでした。その怒りは、いったい誰に向いていたのかさえわかりません。ダビデ自身だったのでしょうか。ダビデも神を侮ったもののように、刈り取りをする結果となったことは皆さんもご存じのことでしょう。  神を畏れるとは、神のことばを畏れることです。 「ヨシュアは、そのとき、誓って言った。『この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。』」(ヨシュア記 6:26) 「彼(アハブ)の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えるとき、長子アビラムを失い、門を建てるとき、末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」(列王記 I 16:34) このベテル人ヒエルという人物は、ヨシュアのことばを知らなかったのでしょうか。推測ですが、恐らく知っていたと思われます。イスラエル人の間に言い伝えられ、そのため長い間エリコを再建する者がいなかったのではないでしょうか。長子と末子のことだけが書かれていますが、聖書研究者たちは、間の子たちもエリコの建設中に次々と死んだ、つまり彼の息子たちは全部死んだと解釈しています。  神は今もご自分のことばを同じように取り扱われます。私たちは神のことばに直面するとき、それを畏れなければなりません。  別の例ですが、神を侮るとは、神のことばを妄り(みだり)に口にすることです。私は、マイヤー・パールマンが「日曜学校教授法」に書いている例話のようになることを恐れて、これまでここに記す話を口に昇らせませんでした。パールマンはこのように書いています。「悪い暗示になることを子どもたちの前で語るな。」その例話にこういう話が載せられています。 --- ある学校の先生が子どもたちに次のような注意をした。 「工事現場で新しく打ったコンクリートの上を歩いてはいけません。足跡がついてしまいますから。」 すると翌日には近くの工事現場の新設のコンクリートは子どもたちの足跡でいっぱいになった。 --- あえてここに記しますが、私がまだ救われて数年しか経っていない若い時のことです。私たちの教会にある別の教会の役員さんが、会社から出向を命じられ、仕事のため1年間仙台に来、私たちの教会に客会員として出席しました。ある時夜の伝道会が済んだ後、ラーメンを食べにいこうという話になりました。するとその方が、こういう冗談を言いました。「食い改めだ。」私は唖然としました。「悔い改め」という大切な神のことばを、なんと思っているのだろうと。私たちは神を畏れ、そのように神のことばを「みだりに」(出エジプト記 20:7)口にしないようにしましょう。  イエス・キリストは、神殿で商売がなされていることをお嫌いになりました。神の名でこの世の営みをして利益を得る、それもまた神を畏れないことです。私たちの内からそのような生き方を排除しなければなりません。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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