同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステ —

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:1-4)

 5月31日がペンテコステです。最近のキリスト教界の傾向として、聖霊派、異言派と呼ばれる系統の人々を除き、きよめ派と呼ばれる人々の間でも、あまりペンテコステを重視しない風潮であるように感じられます。主が復活されて5週後、冒頭のみことばに記された出来事がありました。この記事について、そこに認められた異象の不思議さ、他国のことばで話しだした、というようなことに目がとまり、その本質が見落とされているためと思われます。
 これは過去の一時のできごとではなく、新しい時代の始まりでした。結婚式を考えればよく分かります。式は確かにその時のことです。ときどき教会の兄弟姉妹の結婚式の写真が皆さんの前に公開されて、某兄弟は衣装を決めてから式までに日にちがあって、その間にすこし太りパンツがぴちぴちだったなど、その時のできごとに話題がつきません。しかし、それは式が全部なのではなく、独身時代を終え、家庭生活にながく生きる始まりでした。ペンテコステもそうであって、そのできごとは一時のことでしたが、イエスが約束された助け主の時代、「聖霊の時代」の始まりでした。
 主の弟子たちは、復活のイエスにお会いしたにもかかわらず、「私は漁にいく。」「私たちもいっしょに行きましょう。」といっていたシモン・ペテロと仲間たちでした。彼らは弱く、ローマ帝国への宣教どころか、パリサイ人たちに対してさえも太刀打ちできるようなものではありませんでした。
 主は昇天されるときもう一度念を押されました。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。」(ルカ 24:49)「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。・・・聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」(使徒1:4-8)
 弱かった弟子たちは強い者とされました。そしてそこに生き続けました。それは今の私たちにまですっと続いているのです。ペンテコステは過去の一時のことで終わりではありません。聖霊は今も私たちの側におられます。私たちは、助け主、聖霊と共に生きる者とさせていただきましょう。

Valid XHTML 1.0 Strict