同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第46回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.3 王(つづき)

 旧約聖書の時代の王の職務の第一は、軍事的に国を守ることであったわけですが、その他の職務はなんだったのでしょうか。
 私たちは、国を動かすための大切な権限として、立法、司法、行政の三権があって、国の機関あるいはその役職についた人によって、国全体が暴走しないように、この三権をそれぞれ独立した権力構造にするということを、聞かされてきました。
 しかし、この学びの冒頭に述べたように、旧約の王は専制君主であって、これらの三権を全部掌握していました。まずこれらの三権が王の権威の下にあったことを示している記事を確認しておきましょう。
 立法権についてですが、イスラエルと後のユダでは、刑法に相当する部分は律法がその役目をはたしていました。従って王が定めたのはそれ以外の事柄に関する法令でした。どの程度成文化されたかはよく分かりませんが、王には書記官がいて、これらの法令の発行や、国内の行政に関する記録が残されていました。
「セラヤは書記官」(サムエル記II 8:
17)以下、王の書記をつとめた人物たち、シュワ(シャウシャ)、ダビデの叔父ヨナタン、エリホレフ、アヒヤ、シェブナ、シャファン、シェマヤ、エイエル、エリシャマ、ゲマルヤ、ヨナタン、といった人々の名が登場します。
 国を動かすためには歳費が必要ですが、昔も今と変わりなく税金を集めました。
「エホヤキムは銀と金をパロに贈ったが、パロの要求するだけの銀を与えるためには、この国に税を課さなければならなかった。彼は、パロ・ネコに贈るために、ひとりひとりに割り当てて、銀と金をこの国の人々から取り立てた。」(列王記II 23:35)
これは、通常の税の他に取り立てた特別の税金でした。税の他に、徴兵や役務に応じることも王の権限で命令されました。
 成文化された法令の発行は、ペルシャ帝国に関して、エステル記、ダニエル書などに多く記されています。国が巨大になり、文書にして国の隅々まで配布しないと徹底されなかったためでしょう。国の大小により成文化の程度や、規則の綿密さには差があるでしょうが、国を動かすためには同じように必要なものですから、小国においても同様になされていたと考えるべきです。
 行政権については、
「ソロモンは、イスラエルの全土に十二人の守護を置いた。彼らは王とその一族に食糧を納めていた。すなわち、一年に一か月間、おのおの食糧を納めていた。」
(列王記I 4:7)
「ソロモンは、荷役人夫七万人、山で石を切り出す者八万人、彼らを指揮する者三千六百人の人数をそろえた(動員した)。」
(歴代誌II 2:1)
「レハブアムはエルサレムに住み、ユダの中に防備の町々を建てた。」(歴代誌II 11:5)
「アサ王はユダの人々をみな連れて行き、バシャが建築に用いたラマの石材と木材を運び出させたうえ、これを用いてゲバとミツパを建てた。」(歴代誌II 16:6)
等々、数多くの記事があります。
 司法権については、ソロモンの知恵を記述するために特別に記録された記事が目につきます。
「そのころ、ふたりの遊女が王のところに来て、その前に立った。・・
そこで王は宣告を下して言った。『生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。』イスラエル人はみな、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。」
(列王記I 3:16-28)
また、
「イスラエルの王(アハブの子ヨラム)が城壁の上を通りかかると、ひとりの女が彼に叫んで言った。『王さま。お救いください。』王は言った。『主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか。打ち場の物をもってか。それとも、酒ぶねの物をもってか。』 それから王は彼女に尋ねた。『いったい、どうしたというのか。』・・・」(列王記II 6:26-30)
 これはアラムの軍に包囲された城壁のなかでの特別なことですが、司法のトップは王でした。通常は、族長たちが自分の種族のできごとを裁いていたことでしょう。

 教会を治めるには、教会の活動のために、それが成文化されるされないは別として、必要な規則を作らなければなりません。教会員にそれを実行させなければなりません。違反者にはそれに対応する処置がとられなければなりません。
 同様に、家庭は無法地帯ではあり得ません。ルールがあり、実行され、違反には処置がとられなければなりません。子供たちが育っていく過程で、それが特に重要です。神の前に生きていくことと、通常の、この世で生きていくことの両方について、子供たちの未来がその内容の如何にかかっています。子供たちの信仰形成と人格形成がそこでなされます。
 何が必要なルールでしょうか。それは旧約の王に相当する、それをあずかっている人の霊性の如何にかかっています。
 「神を畏れる」ことになるかどうかが中心でしょう。そして、神と人に対する愛に相応しい行動であるかどうか問われるべきです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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