同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第42回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.3 王

 「万人王」という視点で、旧約の王について考察したいと思います。
 ここにいう「万人」は、キリスト者だけが対象であって、不信者は含みません。
「万人王」つまりキリスト者すべてが王であるという思想は、「万人預言者」同様、先を歩んだ人々の著書にすでに記されています。それを示すために、掲げているジェファーソンのことばの他に、アンドリュー・マーレーのことばを引用しておきます。
---「私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である」。(黙示 1:6)
 王の場合も祭司の場合も、力と影響力と祝福がその中心的な事柄です。王の力は上から下へくだる力、祭司の力は上へのぼる力、忍耐をもって祈り続ける力です。イエス・キリストは恵み深い祭司であり王です。イエス・キリストの王としての力は、祭司としての「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます」という事実にもとづいたものです。王である私たちの場合も同じです。すなわち、とりなしによって、教会はその最高の力を得、各教会員が、神と人との争いで勝ち得たあのイスラエルの子孫であることを、それぞれ証明すべきです。---(アンドリュー・マーレー著「キリストとともに -祈りの学校- 」(いのちのことば社、1981)p.9-10 から引用。)
 念のため述べておきますが、私たちの先を歩んだ著名な信仰者たちが、そう言うから万人王という思想が聖書の思想であると判断するのかと問われるなら、それは違います。
 イエス・キリストは「メルキゼデクの位に等しい祭司」(ヘブル 7:17)であり、「大祭司」(ヘブル 9:11)です。イエスは、モーセが「主は・・・私のようなひとりの預言者を・・・起こされる」(申命記 18:15)といったその預言者です。そして、「ダビデの王位」(ルカ 1:32)につかれた王であることを、キリスト者はみな疑いません。
 「キリストは教会のかしら」(エペソ 5:23)であり、「教会はキリストのからだ」(コロサイ 1:24)です。かしらが祭司であり預言者であり王であるのに、からだがそうでないということがあるでしょうか。ここに、万人祭司、万人預言者、万人王である確かな証拠があります。ですから、キリストのからだである教会は祭司、預言者、王であり、教会を構成するキリスト者ひとりひとりもそうなのです。
 「かしら」は、世に対して祭司、預言者、王としての働きをなさるのに当たって、「からだ」を使って働かれます。
 キリストは高き天において、父の右に座し、祈っておられ、父の前に執り成しをなしてくださっておられる、そうでしょう、さらに地においても彼の祈りが続いています。彼のからだであるキリスト者が、神のみこころに従って隣人のため祈るときそれがキリストの祈りとなり、隣人のために執り成しをするときそれがキリストの執り成しとなるのです。それがキリスト者に特権として与えられているのです。

 預言者に関する規定が記されていないのと同様に、王についても祭司に関するような詳細な規定は、旧約聖書に記載されていませんが、2箇所に王のきまりについて触れられている記事があります。
 ひとつは申命記17章で、
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。」(申命記 17:14-15)
で、イスラエル人以外の外国人を王として立ててはならないという規定です。以下、王の職務の内容ではなく、王がその職務を正しく遂行するために守らなければならない事項が定められています。
 王は、
・自分のために馬を多く増やしてはならない。
・エジプトに民を連れ帰ってはならない。
・多くの妻を持ってはならない。
・自分のための金銀を非常に多く増やしてはならない。
・律法の書を書き写し、一生の間常にそれを読まなければならない。
その理由として、
・彼の神主を畏れて、この戒めを守りおこなう(ことを学ぶ)ためである。
・その心が高ぶり、主の戒めからそれることのないように、
・そして、彼と彼の子孫がイスラエルのうちに長くその王権を保つことができるためである。
という内容が列記されています。
 もう一箇所はサムエル記第一8章11節から18節で、イスラエル人が王を立てて欲しいとサムエルのところにやってきたとき、サムエルが王はこういうことをすると彼らに警告した内容です。これは神の前に相応しい王の姿を示すための規則ではありません。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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