同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 師弟関係の重要性 —

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」(マタイ 28:18-20)

 冒頭のみことばは、イエス・キリストが復活され、弟子たちにご自分が復活されたことを示された後、弟子たちに命令されたそのご命令の内容です。
 ここでイエスが言われていることは、まずイエスが天地のいっさいの権威を父から与えられていることです。続く「それゆえ」ということばの意味は、その権威をあなたがたに授けるということです。そしてそれを最後にいわれている「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」ということばで保証しておられるのです。
 さて、その権威によって何をするのかというならば、それは彼らが「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということです。そして弟子となった人々にバプテスマを授け、イエスが彼らに教えられたすべてのことを守るように指導することでした。 日本には欧米諸国の人々を通してキリスト教が伝えられました。昨今のこれらの国々の様子では、人権尊重という考えが個人主義に形を変え、それが徹底されたために師と弟子という考えは彼らの間では希薄であり、理解の届かないものとなっているように見受けます。キリスト教は、それを信じている人のもっている感覚、センスといったものに大きく影響されます。ですから、今日本に伝えられているキリスト教は、その欧米の人々の感覚になじんだ、彼らの受け入れうるキリスト教であると考えるべきでしょう。つまり、師と弟子の関係が抜けているキリスト教であるのではないでしょうか。そこに、師と弟子の関係を持たないで、バプテスマを授け、聖書に書かれているよいことのすすめを守ることを知識として教えるキリスト教となっている原因があります。そのようなキリスト教は、人格的な交わりによらず、その思想を本などによって受け入れることと同じです。
 日本人の先生(牧師)方は、「私は神が私を救ってくださり、牧師、伝道者として召してくださった者(冒頭のみことばにある権威を与えられた者)である。あなたは私の弟子となりたいか?」と信徒や求道者に問うといいと思います。弟子を持つ人は、弟子以上に自分を保たなければなりません。ですから弟子を持つ人は自ずと道に励み、力ある人となるでしょう。一方、信者が弟子となって教えを受けることは幸いです。そこには、本やテレビなど様々なメディアで学ぶ以上のものがあります。短い文では表し切れませんが、イエスは師と弟子の関係の模範を残されました。私たちのキリスト教をそのようなものとしましょう。

Valid XHTML 1.0 Strict