同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 罪と過失について —

「牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。」(出エジプト記 21:28-29)

 まずお断りしておきたいのですが、本コラムに取り上げている記事は、聖書を神のことばと信じ、悔い改め、救われ、新生の恵に与り、真摯に信仰に励んでいるキリスト者に対するものであって、聖書の思想に同意したのみで、悔い改めたこともなく、罪の赦しも、新生も知らないけれども自分はキリスト者であると思っている人々に対するものではありません。
 さて、ウェスレアンの「潔め」に反対する人々は、人は生きている限り「罪はなくならない」と主張しますが、よく理解しておかなければならないことは、「罪をなくすことができない」と言っているのであって、「罪を犯してよい」と言っているのではないことです。この場合の罪は罪と過失の両方を含んでいます。ウェスレアンの人々が、「過失はなくならない」と言うときも同様で、「過失をなくすことができない」のであって、「過失を犯してもよい」と言っているのではありません。
 罪も過失も十字架の贖いを要するものですが、神は罪と過失を分け、それぞれ対応を変えておられます。
 冒頭に取り上げた聖書の記事の前半は、牛の持ち主の「過失」です。後半はその過失を放置して、その牛の持ち主が「罪」を犯した記事です。過失は赦されますが、罪は処罰されます。
「祭司は、あやまって罪を犯した者のために、主の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。
・・故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」(民数記 15:28、31)
「ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト記 21:13-14)
 以上から神が罪と過失を区分しておられることは明かですが、どんな議論にも勝って大切なことはヨハネのすすめです。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」(I ヨハネ 2:1)

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