同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第54回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)

 天に召された私の妻は、霊の問題についての鋭い洞察力の持ち主でした。それで、教会の様々な問題に対する彼女の見解には、アビガイルがダビデの前に立ってダビデの置かれている状況について語った(Ⅰサムエル記 25:29以下)鋭さを連想させるものがしばしばありました。彼女が私に対して求めたことは、「あなたは工学については学者も結構だが、キリスト教については学者になってくれるな」でした。事実彼女は、私が東北大学から工学博士の学位を授与された時、大いに喜んでくれましたが、キリスト教については、先に引用したイエスの山上の垂訓の最後にあるみことばにあるように、学者ではなく権威ある者・・私の場合は自分の家庭においてだけでよかったのですが・・であることを私に求めました。欧米には神学博士でないと講壇に登らせないという教会があるそうですが、イエス・キリストはもとより、イエスの弟子たちは誰一人その教会の講壇には登れないではありませんか。
 キリスト者が与えられる権威は、人と人との間に存在するものであって、その職位の任命書を一枚もらえば突然その権威を用いることができるというものではありません。牧師は牧師の権威を保つために労する必要があるのです。さもないと、旧約のところで引用したサウルが王の権威を授けられていながら、それを用いることができなかった(Ⅰサムエル記 15:17)のと同じになります。
 牧師の給与が充分でない小さな教会であるのに、献金の使途に信者が口を出す教会があると聞きます。そういう教会の信者はこのように言うべきではありませんか。「先生、充分なものを差し上げられなくて申し訳ありません。集まったものは先生の思うままに、先生が一番必要とされるところからお使い下さい。」
 牧師は自分の子供が不信者になったら、力ある説教ができるでしょうか。従って牧師の子供が救われるか否かは、その教会が立つか倒れるかする重大事なのです。ですから、もし充分な献金がないなら、それでも一番最初に牧師の家庭の子供たちがちょっとでも潤うことができるようにすべきです。そこが一番必要なところなのです。牧師が子供のためにどうお金を使うことができるかは、その救いと決して無関係ではありません。ところが牧師の側でもどうしても家族のために使うことに信者に対する遠慮がでます。教会全体を倒してしまわないために、もしそういうことに無知な信徒がいたならそれを理解させる戦いを戦わなければなりません。
 あとで牧師職についてまとめて考察しようと思っていますが、権威に関わることにすこし触れておきます。牧師は信者をキリスト者に相応しく整える仕事を任されています。それは信徒の個人的な心の内の信仰だけでなく経済問題も、結婚も、家庭生活も、子女の教育やそのほか一切のこと、もしそれが信仰に触れてくるときは指導の対象となります。なぜなら信徒の信仰がその問題で倒れるかもしれないからです。
 ところが一例として、信者の結婚の問題に口をつぐんで指導しない教会が多々あると聞きます。もしそのことによってその信者の信仰が台無しになったら神の前にどう申し開きをするのでしょうか。
「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」
(エゼキエル書 33:2-9)
 牧師が口をつぐむようになった理由は、先生のおすすめに従って結婚したがうまくいかなかったという信者が現れて先生に苦情をいう、そういうことが多かったからであろうと推測できます。結婚はすべてそのあとに営々と努力して二人の間を建てあげなければならないのですが、その建て上げがうまくいかなかったことを先生のせいにしたということに他なりません。しかし牧師はそれに辟易(へきえき)してもう手を出さないという結果を生んだのでしょう。
 牧師には信徒の結婚にもそのあとにも指導する権威と義務があるのです。引用したエゼキエル書のみことばの通り、もし忠告しても聞かなければ、その信者の行くがままにするしかありませんが。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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