論説
— イエスの祈り —
「ゲツセマネという所に来て、・・・ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」・・・イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」・・・もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。」(マタイ 26:36-44)
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル 5:7)
今年の教会歴では、3月28日が棕櫚の聖日、4月4日がイースターです。今回も変わらず、節季に合わせてイエスに思いを寄せましょう。
冒頭に掲げたヘブル人への手紙の記者は、「イエスの祈りは父なる神に聞かれた、すなわち神に受け入れられ、願ったとおりを神がなさった」と、明確に記していますが、イエスはゲッセマネの祈りで、二つのことを述べています。それは「死にたくない」というご自分の気持ちと、「父のみこころの通りにしてください」という父なる神への従順です。
イエスは神としてではなく、「人として」この地上の生涯を送られました。「人間イエス」にとって十字架は、私たちが耐え難いのと同様に耐え難いものでした。ですから、「自分を死から救うことのできる方」にその願いをささげました。けれども父への従順がその願いよりも大きな位置を占めていました。
父なる神がイエスの祈りに応えられたのは、イエスにとって最善のものでした。それによって、私たちの贖いは完成し、イエスご自身は「お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり」(ヘブル 5:8)ました。
柚木康の「まぶねの中に」を、その歌詞を思いめぐらしながら讃美致しましょう。
まぶねのなかに うぶごえあげ
たくみの家に 人となりて
貧しきうれい 生くるなやみ
つぶさになめし この人を見よ
・・・
すべてのものを 与えしすえ
死のほかなにも むくいられで
十字架のうえに あげられつつ
敵をゆるしし この人を見よ
この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 活ける神なれ