同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 真実に生きよう —

「主は真実の神で・・」(申命記 32:4)
「私に愛と真実を尽くしてくれ。」(創世記 47:29)
「それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」(創世記 21:23)

 私たちは違和感を抱かずに「真実」ということばを品性のひとつとして用いていますが、通常の日本語では品性を表す用語としては用いられていません。通常の日本語では、真実は「本当のこと」の表現です。
それは単なる「事実」と違って、「真実」の反意語は「虚偽」であることから分かるように、倫理的な意味を含んだ場面で述べる「事実であること」を表しています。
 翻訳の問題ですが、文語訳聖書では「真実」は神の属性として使われ、人間には「誠実」が当てられることが多かったと思います。口語訳に改めるとき、人間の品性としても真実が多く用いられました。各訳の聖書を読み比べてみると、ある聖書には真実ということばが当てられているところに、他の訳では正直、誠実、親切、まごころ、まこと、誠意等々のことばが当てられていて、真実はこれらのことばの全体であることが分かります。
 品性とは良い面も悪い面も全て含みますが、品性の良い面の総称に「徳」ということばが当てられています。ですからパウロは「教会の徳を高める」(I コリント 14:12)ようにと繰り返し述べています。
 この徳は「愛」と「真実」に大別できるでしょう。愛と真実は互いに重複する領域を含んでいますが、大まかに括ると、「愛」は隣人に対する心の姿勢を示すもの、「真実」は自分自身に対する心の姿勢を示すものであると言えます。「神は真実です」ということは、「神は約束を違(たが)えることがおできにならない」ということであって、それは神が「ご自分を偽り者としてしまうこと」を意味するからです。同様に私たちも「真実」でないと、「自分を偽り者」とすることになります。
 英語聖書でも日本語同様「真実」に相当することばがいろいろ使われていますが、そのひとつを逆に英和辞典で引いてみると、「本心をいつわりなく示すこと」とあります。私たちは自分の本心を偽り無く人に示しつつ生きていけるでしょうか。もちろん全ての人に表すわけではありません。「然るべき時に」です。それ以外は「何も表さない」のです。
 ジェファーソンの「イエスの品性」が連載されていますが、丁度今回「イエスの真実」の章が掲載されています。真実に生きるための学びに是非お読み下さい。それにより、私たちが「真実に生きる」ことの大切さをお分かり頂けると思います。

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