同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 礼拝 —

「それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。」
(創世記 22:5)

 新しい年を迎え、まず礼拝をもって一年を始めることはキリスト者にとって相応しいこと、なくてはならないことです。読者の皆さんも元旦か、2日の日曜日に礼拝をされることでしょう。
 日本語訳聖書の中で礼拝ということばは、このアブラハムが従者たちに話したことばにはじめて登場します。この会話の雰囲気から、彼らは日常的に礼拝ということばを用いていた様子がうかがえます。アブラハムはその行く先々で祭壇を築いて神を礼拝する「礼拝の人」でした。
 アブラハムにとってこの礼拝は、何と重いものであったことでしょう。彼にとってイサクは全世界よりも、自分の命よりも、大切なものであったことは云うまでもありません。彼はそれを神の御手に献げることができました。彼は独り子の命を捧げることによって、父なる神の心を知り、神の友と呼ばれました。彼は、神はイサクを復活されるという信仰をもって、イサクから多くの民が生まれるという神のお約束と、イサクを献げよというご命令の両方を信じることができました。事実神は御子を復活させなさいました。
 私たちの礼拝も、神の手にお任せできないものを私たちの手の中に残しておいてはなりません。もし残しておいたなら、信仰の父アブラハムに倣ったことにはなりません。
 このアブラハムの礼拝において、もう一つ大切なことが示されました。それは神の側の備えです。アブラハムがいけにえの羊はどこにあるのかというイサクの質問に、それは神がご用意されると答えましたが、神はその通りにされました。その神が用意されたいけにえの羊によってアブラハムの礼拝がなされました。
 私たちの礼拝も神がご用意された、イエス・キリストの犠牲によってなされなければなりません。讃美も祈りも聖書購読も説教もすべて、イエスの血による贖いによって神を礼拝する手だてとなるのです。私たちの献げる献金もすべてそうでなければなりません。もし贖いを通さずに献げようしたならそれはカインの献げものとなります。私たちの献金はアベルの献げものでなければなりません。献金箱に手を伸ばすとき、どうぞアベルの献げものとしてお受け下さいますようにと思ってください。イエスの血なしには神は私たちの献金を必要とされません。
 この一年、私たちはアブラハムの子、礼拝の民であらせていただきましょう。

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