聖書研究
— 万人祭司・万人予言者・万人王(第63回) —
野澤 睦雄
・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)
3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)
神と人との仲立ちになる中保者がもっていなければならない事柄について論じています。それに関して、イエス・キリストは、
- 神の家に忠実であられた
ことを考えてみましょう。ヘブル人への手紙の記者はこう記します。
「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル 3:6)
私たちが「神の家」であり、神の家は教会ですから、イエスは神の家に忠実であるということは、イエスは教会にそしてその構成員であるわたくしたち一人ひとりに対して忠実であってくださいます。そしてそのイエスの忠実と同じように、私たちも、教会に対しそしてお互いひとりひとりに対して忠実である事が求められます。具体的にな働きには、「自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。」(テトス 2:2)ということばを飾るような忠実さが必要でしょう。
次に、イエス・キリストは - 私たちの先駆けとして大祭司となり、幕の内側に入られた。
ことを考察しましょう。前に記したように、この幕は聖所と至聖所との間の隔ての垂れ幕をさしていますが、隔ての幕の内容については後で考えることにし、「幕の内側に入られた」ということばによって示されているイエスが持たれたものはなんであるか考えましょう。
幕の内側は大祭司が年に1度だけ入る至聖所でした。イエスは、その至聖所に常におられるということです。至聖所には神の栄光・・シェキナと呼ばれています・・があって、神の前に出たモーセの顔がその栄光を反映して光ったのでかれは顔に覆いをかけたことが記されています。パウロはそのことについてこう記します。
「モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(II コリント 3:13-18)
隔ての幕が取り除かれた今、私たちはモーセが幕の内側で神にお会いした状況を常に持っているということです。その故に、私たちは主の栄光を反映して、栄光から栄光へと姿を変貌させていただけるということです。何と大きな特権の時代でしょう。
そして旧約の祭司たちが栄光の衣装に身を固め、任職の血潮と油とによって潔められ聖別されてその職に任じられたように、私たちはその神からでた栄光を身に帯びて、祭司の職務を務めるのです。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)
(仙台聖泉キリスト教会員)