聖書研究
— 万人祭司・万人予言者・万人王(第59回) —
野澤 睦雄
・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)
3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司
 ヘブル人への手紙の鍵のことばは「大祭司」です。それを念頭において全体を読むと、大祭司イエスがこの書のテーマであることが分かります。
   1章にはまず、この新約の大祭司をおつとめになるイエスは、どのようなお方であるかが解説されます。
  ・神がこの方を通して語られる方 1:1-2
  ・預言者たちに勝る方 1:1-2
  ・神の本質をお持ちの方 1:2-3
  ・罪の潔めの業を完成された方 1:3
  ・天に登られて父の右に座された方 1:3
  ・神の独り子であられる方 1:5-6
  ・ご自身が神であられる方 1:7-9
  ・創造者であられる方 1:10-12
  ・み使いたちに勝る方 1:13-14
 イエスの体として、イエスの祭司職を担う私たちはどのような者であることを期待されているのでしょうか。あるいは、どのような者でなければならないのでしょうか。
   私たちは被造物であって創造者ではありえないように、全ての点でイエスと同じになることはできません。それはあり得ないことです。また天に登らせていただくことなど・・心は天にありますが・・やがて与えられる約束もあります。
   しかし聖書をひもといてみると、枝としてイエスについていると幹であるイエスから流れ出るものとしてこれらの多くが私たち自身のものとなることがわかります。
  ・今の時代には「神は私たちを通して語られます。」
  教会に集うキリスト者を除いて、一体だれが神のことばを取り次ぐでしょうか。もしそれ意外に、直接どこかから声が聞こえたらそれは悪霊のささやきだと思って間違いありません。
  ・預言者たちに勝ることを期待されている私たち
   救われ新生の恵に与った人は、既に天に国籍を持つ者ですが、「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ 11:11)とは、何を意味するでしょう。これは「恐れを持って」受け取るべき栄光ある地位です。
  ・神の性質が分与されること
  「・・こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:19)
  私たちはただ罪が赦されて、それを「無かったもののように」扱っていただけるだけで、罪の中に生きていたままの荒れ果てた品性で生きていくのではありません。
  ・イエスの完成された罪の潔めを他の隣人に取り次ぐこと
  パウロはこう言いました。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ 1:24)パウロは私たちの模範であって、私たちもパウロと同じようにキリストの苦しみの欠けたところを満たす働きを期待されています。
  ・神の子とされた
   私たちは神の子どもです。
  「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ 1:12)
   新生のいのちは神によって、神の子として生まれたいのちです。私たちは確かに新生のいのちを持っています。未だ新生していない人と世の人々には理解できないいのちです。
  ・私たちはみ使いたちに勝るものと認められている
  「私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。」(I コリント 6:3)
  「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」(ヘブル 2:16)
 神は私たちが大祭司イエスの体としての務めを果たすために、私たちに大いなる特権を与え、期待しておられるのです。
   繰り返し述べたいことは、「恐れをもって」その特権をいただき、真実を尽くしてその働きに邁進させていただこうではないかということです。
(仙台聖泉キリスト教会員)