同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第60回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

 ヘブル人への手紙2章に、イエスが大祭司を務めるために、果たしておかなければならなかったことが解説されています。
 前後を抜いて、まず焦点となる部分に目をとめましょう。
 祭司は神と人との間に立つ中保者です。中保者は、神との関係でその役が務まるものでなければなりませんし、同時に人との関係でもその役が務まるものでなければなりません。イエスの中保者としての神との関係は後で述べることにして、ヘブル人への手紙の記者がここに書いている、イエスが人との関係で中保者を務めるために備えられた要件を考えてみましょう。
「あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」(ヘブル 2:17)
 イエスはどのように兄弟たち(人間)と同じになられたでしょうか。

 2章には、イエスがこのようになられたことに対する神の側の理由も解説されています。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(2:10)
 イエスが祭司としての務めをなすための要件は、人間と同じになることでした。
 私たちがイエスの体として、イエスの祭司としての職務を、この地上に現そうとしたなら、イエスがなされたのと同様のことを行わなければならないのです。つまり、神の前に中保しようと思うその人と同じ位置に立っていなければならないのです。
 祭司として経験していなければならない事項は、 等々あるでしょうが、私たちがこれらひとつびとつについて、どのように兄弟たちと同じであるかによって私たちが中保者、祭司の役に立てる人々が変わってきます。
 イエスを讃美してこう言います。
貧しき憂い、生くる悩み、
つぶさになめし
この人を見よ
イエスが貧しい人の中保者となるためにご自身が貧しくなられたとしたら、私たちも貧しい憂い、生きる悩みを通らずに、そこに生きている人々の中保者になれるでしょうか。
 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ書 53:3)
 このみことばがイエスについて述べていることを疑うキリスト者はいません。自ら病んだ経験があるなら、最もよく病を理解するでしょう。もし、愛する人々が病にあったなら、それもまた病むということが何であるか理解する助けとなるでしょう。これは体の病にも心の病にも当てはまるでしょう。イエスが病を知っていたように、私たちも病を知って、病む人や病む人抱えている人々の中保者になれるにちがいありません。パウロでさえも、「肉体のとげ」と表現されたものがありました。神の目的はパウロが高ぶることがないためであるとしています。それなしには祭司の役目が務まらなくなるのでした。たとえ第三の天を見てきても、その故に高ぶる、つまり兄弟と同じ位置に自分を置かなくなるならば、祭司は務まらないのです。
「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い・・」(ルカ 7:12-13)
 愛する者の死を迎えた人々、あるいは死に行く人々に対する中保者、祭司の役はどんな人であったら務まるでしょうか。愛する者の死はその役に近づけてくれます。
 私たちは自らの死で人々を贖うのではありません。イエス・キリストの死によって愛する人々を贖いに入れるのです。祭司はその仲立ちです。私たちが兄弟と同じになるとき彼らは私たちを受け入れ、私たちが彼らとイエス・キリストの中保者、祭司として、仲立ちになることを承知するでしょう。私たちの生きる苦しみ悩みが多ければ多いほど、祭司の働きができる範囲が広まるのです。
 イエス・キリストが栄光を持たれたのと同様に、私たちの祭司の役目は栄光あるものです。朽ちない冠は遠い死後の世界にあるのではなく、今ここにあるのです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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